「はてなどう」「ナラカ」「円環伝承」共用。書き手は ちゃすかとすわさきの二人。
芸術・娯楽作品の創作者が消費者からの不本意な感想を受けて創作意欲をなくしてしまうなんてことは昔からあり、たとえば小説家の小野不由美がゴーストハント新シリーズを停止させてしまったのは、ゴーストハント旧シリーズ愛読者からの辛辣すぎる批判の手紙を読んだからだという。

基本的な部分はずっと変わらないのだろう。けれどインターネットの普及によって、作り手が自作品への批判を目にする機会はより増えた。受け手側も世界へ向けて容易に自分の言葉を発信できるようになったため、作り手と受け手の間にあった壁が薄くなったのだ。

一年と少しくらい前、ある有名出版社の漫画とライトノベルを担当するフリー編集者が、自ブログにて、WEB上に公表された無数の素人書評を痛烈に批判していたことがある。(現在は、ブログ自体が削除されているようだ。)
曰く、作家の多くが自作品への批判を快く思っていない。また、批判は(担当編集者である自分にとっても)営業妨害なので公表すべきではない。なお、素人の書評は批評の域に達していない雑音に過ぎない。

実際、自作品を批判されて不快にならない人間は希少だろうし、まして的外れな解釈を根拠に否定されていたなら、文句の一つも言いたくなって当然だろう。
素人感想の多くが「作品の質を向上させ得る意義ある意見」ではなく、無責任に放出される《ダベり》であって、その意味で無価値であることも否定しきれるものではない。
けれど、「よほど有用なことが言えない限りは発言してはならない」というのも横暴な意見である。


漫画家の萩尾望都が若い時分に書いたエッセイは、ユーモア溢れた表現になっているけれども、WEBで好き勝手に批判含む感想を書き散らし、創作者側への要望めいた意見を書くこともある身としては、刺さる部分がある。孫引きになってしまうが、少し引用する。

萩尾望都もマニアへの対応には苦慮していた、という話。「まんがABC」(1974年)、「わたしのまんが論」(1976年)より。(情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明)

 ……私は小さいときから、まんが好きで、描いていたせいか、アマでいたころも、プロになってからもだが、描き手の気持ちに通じるところをもってて、それが、今の描き手にやたら注文をつけたがる、ド・マニアをみてると、ふしぎでならない。


 ド・マニアはよく、「辞書にないことばを使ってはいけない」とか、「地図にない地名を使ってはいけない」とか、「ここに書かれている英文の、動詞が抜けてるのはけしからん」とか、いってくる。


 ド・マニアたちを見てると、たいそう頭はいい。だが、創造性には乏しい。しかし頭がいいので人のアラばかり見えるらしい。しかし、人のアラばかりみてるより、何かやったほうがおもしろいのに。

 私は、だから、ド・マニアたちがけいべつの目で見る、一般大衆、一般読者の方にこそ、実に豊かな感受性や想像性を感じるのだ。そして何より、そちらの方にものに対するやさしさや、あたたかさが感じられて、この道6年、そして今年も、また描こう、と思うのだ。


また、以下のブログ記事に、雑誌『ゲーム批評』での14年前の記事が紹介されており、面白かった。

批評とは(へなショボblog)

あるゲームへのプロライターによる過激な批判記事が掲載された翌号、そのゲーム会社の元社員を名乗る人物が、これまた過激に叩き返した原稿を寄せた。これも孫引きする。

平成7年2月22日、AOUショー視察の為、明日出張するが、またあの忌まわしい光景を観るのかと思うとゾッとする。
なぜなら、出没するのだ!俺の嫌いな百害あって一利なしの人種が・・・小太り、メガネ、いかにもゲーム以外には興味が無さそうな容姿の御方。
その御方たちは、ゲームをお楽しみになられるのかといえばそうではない。話題のゲームを占領し批評会をしておられるのだ。
中にはわざわざバグを探し、出展ブースの社員を見つめてニッコリ微笑んでらっしゃる。


さて、その批評家は、長年鍛えたそのセンスを生かし大活躍するかといえば全然しないのだ。
確かにゲームのあらを探す能力はあるが、創る能力はないのだ。
結局、批評する能力と創る能力は違うもので、それをはき違えたバカ共は批評できることで優越感に酔い、批評された側より優れていると錯覚しているのだ。


開発のほとんどの人間はゲームが好きで好きでたまらないという奴が、激しい競争率のざるにかけられ、やっと入社した各美大、専門学校の中のエリートで、入社後も同期や先輩と毎日競争する、実力社会の中で飯を食っているプロなのだ。
そんな所に素人の思い付きが入る隙間は一切無く、素人の批評で言うことなど百も承知なのだ。
この際、前回の94の記事の内容が真実だの何だの言うつもりはない。ただ、ゲームを創る才能も情熱もない、就職口の一つとして雑誌社を選んだド素人が、錯覚して批評と称し、上からものを言うのがおかしいと言っているのだ。
確かに金を入れるのは素人で、素人の意見は大切だが、それは好きか嫌いかレベルの判断でいいのだ。それを勝ち誇ったように「そこは違う」と指摘する(違うのはおまえじゃ!)。
もう一度言う。ゲーム創りのプロに対して、どこの馬の骨ともわからないマイナーな人間が名前すら明記せず、悟ったように一般のアホ共に影響力のある雑誌で、ソフト以外にデザイナー個人を罵ったことが許せない。


何故か、無関係の《ゲームショーを訪れる一般客》の容姿・人格・能力を叩いてアホ呼ばわりし、対する自分たちがいかにエリートかと主張している部分は笑えるものだが、このゲームクリエイター氏の苛立ちだけは分かるような気がする。
作品を最も知るのは作者であり、餅は餅屋だ。様々な制約の中で試行錯誤し、苦労の果てに最良のものを生み出しているのだろうから、内部事情を一つも知らない部外者に得々とトンチンカンな評価をされ、愚にもつかないアドバイスをされれば、乞食に説法された高僧のような気分にでもなるのだろう。

けれど、とも思う。
かつて、あるクリエイター氏に、氏が手掛けた商業作品の制作環境がいかに苛酷であったかを語られたことがある。ただの愚痴ではあったのだろうけれど、私はその作品の批判的なレビューを書いてサイトにアップしていたので、そんな苦労も知らずに低評価をしたことを申し訳なく思い、創作能力や立場のない部外者のくせに無責任なレビューをしたことを恥ずかしく思って、くびくびとなった。
今でも、この恥ずかしさは消えずに私の中にある。
しかし、時間が経つにつれ疑問や苛立ちも膨んでいった。

無知で無能力の部外者が口出しするのは滑稽、それは確かだ。けれど、消費者は創作者側の内幕など知る由がない。公開されていないのだから。せいぜい、作品や周辺資料などの乏しい手がかりから推測するしかない。そして推測には限界がある。
カードは伏せられている。不利なのは消費者側で、カードの中身を全て知っている創作者側が有利なのは当たり前だ。なのに《内幕を知らないこと》を理由に愚者扱いされるのは、なんともアンフェアではないか。

それに、製作過程でどんな苦労があり、努力をなし、どれほどの思い入れがあったのだとしても、消費者側には何の関係もない。
こんな事情があったのだからと言い訳されても困る。まして、何も知らないくせにと非難されても困る。
残酷だけれども、出来上がった作品、それのみが評価の対象なのだから。



WEB上、即ち創作者が目にする可能性がある場所に批判的な評価を書くことの是非は、近年よく問われているように思う。
巨大通販サイトAmazonには、利用者が自由に商品のレビューを書きこめる機能があるが、ここに書かれた酷評を読んで精神的打撃を受ける創作者も少なくないのだと言う。

「創作者、特にプロならば批判を甘んじて受け、次の肥やしにせねばならない」という正論がある。
一方で、人の嫌がることはすべきではない、という道徳観もある。
確かに、プロとはいえ人間だ。精神的に弱っている時期に酷い批判を見れば、立ち直れないほどの打撃を受けてもおかしくはない。
とは言え、消費者には(名誉棄損レベルにならない限り)自由に感想を言う権利がある。少なくとも、創作者側に規制されるいわれはないはずだ。

人の口に戸は立てられない。であれば、心が弱っている自覚のある創作者は、「批判は甘んじて受け…」などと言う正論を蹴飛ばして、意に染まない感想は見ないよう自衛するというのも一つの手だろう。
その意味で、創作者本人・または公式サイトなど、逃げ道のない場所に直接、強い批判を送りつける行為は控えるべきだと思っているし、その部分においては以下のブログ記事に共感した。

公式サイトに正論書き込んでどうする(サヨナナ)



ところで、上記のブログでは「作品に不満点があっても何も言うべきではない、言ったところで何も反映されないし、むしろ悪化する」と主張している。他の記事も併せて読むに、「優れた批評なら作品の質を高めることも可能だろうが、自分には無理だし、そんな批評家が存在するとも思えない」ということらしい。


批評は「感想」という大きなカテゴリの中に属するものだが、感想と批評は厳密に区別されるとし、感想とは低レベルなものだと定義して、対する批評、そして批評家というものを、いわば特別視する人々が一定数存在するように思える。

批評について思う事(声楽家 川村英司)

これはプロの声楽家によるエッセイだけれども、その分野の専門知識だけでなく、実務的な意味での高い技術・能力がなければ批評家足り得ないと前提している。
野球を評論するのは名選手でなければならず、音楽家を批評するのは偉大な音楽家でなければならない。ならば、小説を批評するのは文豪でなければならないし、映画を批評するのは大監督か名優でなければならないということだろうか。
素人が役立つ批評を行うことがあるとも述べているが、批評家とは全く別物だと区別している。

批評は、優れた特定の人間にしか行えないものなのであろうか。
創作者が作り出す作品は必ずしも完璧とは言えないものなのに、批評する側には強い調子で完璧を求めるのは何故なのだろう。

私見だけれども、批評に《本物》を求める人々は、結局、批判されることが面白くないのだろうと思う。もしくは、理屈が勝ちすぎているか。だから難しい条件を付け、その水準に達さない批評の、存在そのものを批判する。


一方で、批評家に資格はいらない、けれど自らも批評・批判される覚悟を持たねばならない、と唱える人々もいる。
創作者と批評家、プロとアマチュアの区別さえなく、情報を発信した時点で対等とみなすのだ。壁の薄くなったインターネット時代ならではの考え方ではないかと思う。

批判する責任(こたいや)
批判されない作品(鳶嶋工房)

確かに、自らも批判されることを念頭に入れておけば、言葉は選ばれ、無責任な放言も抑えられるのではないだろうか。


さて。
批評家に資格はいらないという意見には賛同したいが、一定の能力が必要なのは確かだろうとも思う。極端な話、日本語を読めない人間に日本文学作品の批評はできない。
そして、それ以上に必要なのは客観性ではないだろうか。
最初から粗を探そうと思っていては公正な評価はできない。あるいは、期待する物語展開ではなかったことを根拠にした批判は、視野の狭い我が儘にしか見えない。また、作中のさして重要ではない一点にこだわり、それのみで全体を評価してしまうのも、論旨をずらした、歪んだ見方であるように思われる。

以下のブログ記事が、分かり易くて面白く、よく共感できた。

ジブリは山羊に愛がない。(Something Orange)
その作品はあなたのためにあるわけじゃない。(Something Orange)
かんなぎ騒動で思い出したけど、池田理代子も「漫画を描くのを止めろ」という脅迫の手紙を受け取ったことがあるよ、と言う話(1979年、講談社Be-Loveより)(情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明)
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【2009/06/20 11:47】 | すわさき・その他
【タグ】 屁理屈こねこね  
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