「はてなどう」「ナラカ」「円環伝承」共用。書き手は ちゃすかとすわさきの二人。
劇場版マクロスF~イツワリノウタヒメ~ DVD 特典 初回生産限定封入特典「劇場上映 生フィルムコマ」付き劇場版マクロスF~イツワリノウタヒメ~ DVD 特典 初回生産限定封入特典「劇場上映 生フィルムコマ」付き
(2010/10/07)
中村悠一、遠藤綾 他

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2008年放送のTVアニメシリーズの劇場版。
TV版の映像やエピソードも流用しつつ、ストーリーやキャラクター描写をよりよく再構成した二部作の前編となります。

マクロスシリーズと言えば、1982年の一作目以来、30年近く続く人気シリーズ。
●人型に変形する戦闘機・バルキリーをヒーローが操る
●異星人との遭遇と軋轢、融和の模索。ヒロインの歌や恋愛がその鍵となる
●主人公を中心にした男女三角関係がドラマの中心
という三本の柱が特徴かと思います。

本作では、主人公 早乙女アルトを巡るランカ・リーとシェリル・ノーム二人のヒロインが、それぞれ戦争の行方に関わる宿命と能力を持つ歌姫になっています。どちらが真の歌姫か、どちらがアルトの愛を勝ち得るのか。TV放映当時、視聴者間でもファンが派閥を作って大いに盛り上がったものです。
……盛り上がり過ぎていたきらいもありますけれど。

そうして迎えたTV最終回は、決戦でランカとシェリルがデュエット、アルトは「お前たちが俺の翼だ」と告げて一人を選ばないという、《みんな仲良し》な友情ENDでした。それまでの展開はケータイ小説ばりにドロドロしていたというのに……。
どうもファンの異様な盛り上がりを見て当初予定していた結末を放棄、誰も傷つかない道を選んだらしいのですが。視聴者には逆に大不評となりました。生殺しのまま投げ出された格好になったからです。
そして劇場版では、今度こそ決着をつけるという触れ込みに。


観る前は、シェリルファンのための映画だと思っていました。
ポスターはシェリル単体かシェリルメイン。(主人公のアルトですら、二弾目のポスターの後方に顔も判別できないくらい小さく描かれているだけ。)サブタイトルも(今作中でスパイ容疑をかけられる)シェリルを表したもの。(記憶を失い自身を偽った歌姫、という意味で、ランカのこともかけているかもしれませんが。)
シェリルがいかに素敵な女の子かを語るための映画。アルトはシェリルの相手役として活躍を許されるでしょうが、ランカは脇役、せいぜい添え花程度なんだろうと。

けれど実際に観てみると、杞憂は吹き飛びました。
とても面白かったです!
ライブシーンの豪華さなど、シェリル寄りに再構成されているのは間違いがないですが、ちゃんと、ランカにもダブルヒロインとして相応の見せ場が用意されていて。

シェリルがアルトと野や街を駆け回る動的なデートを楽しめば、ランカはアルトと真夜中の静かなデート。そんな風に、均衡を保てるようイベントが配分されている感じでした。
クライマックスとなるシェリルのリベンジライブ~バジュラ(敵とされる虫型宇宙生物)襲来の辺りは特に顕著で、シェリル、ランカ、シェリル、ランカと交互に見せ場となり、最後は二人でデュエット。配慮あふれつつもめまぐるしい構成にちょっぴり苦笑しつつ、楽しむことができました。


メインキャラクターの精神年齢を、現実(声優、視聴者)の時の流れに合わせTV版時よりも二歳ほど上げて描いたそうですが、特にランカとアルトにそれを感じました。

TV版のランカは作中で成長していくキャラクターでしたから、序盤では良くも悪くも子供っぽい。劇場版でもTV版序盤から引っ張ってきたエピソード(歌手になることを養兄に反対され、拗ねてプチ家出をする)ではそのままでしたが、アルトとの深夜デートなどの新作部分では、言動がぐっと大人びて描かれていました。
場のイニシアチブがアルトではなくランカの方にあったのが嬉しい衝撃でしたね。シェリルとの仲をしろどろもどろに弁解しようとするアルトの口をぱっと閉じさせて「アルト君はシェリルさんのことをどう思っているの」と直球で訊いたり。
心の奥底の弱さを打ち明けたアルトに寄り添って、母親のように優しく肯定したり。
アルトの言動に振り回されがちだったTV版の《少女》から脱皮していました。


アルトは、TV版では《逃避》ばかりしている人間に見えました。
歌舞伎の名門に生まれ天才女形[おやま]と呼ばれながら父に反発して出奔、《本物の空》を飛ぶことに憧れてパイロットを目指す。……しかし、父の何に反発したのか、なぜ歌舞伎界から逃げ出したのか、いまひとつ明確に語られることがありません。父親が厳しいとか、女扱いされるのが嫌になったとか、あやふやな動機は語られていましたが。
動機がどうあれ、歌舞伎を捨てる決断をしたならそれでいいのですが、女形であり続けるために必要な長い髪を切り落とすことも、最後までしなかったんですよね。髪型のため女性的に見られることには不快感を示していたくせに。
ですから私には、アルトは歌舞伎の世界に大いに未練があるように感じられましたし、移民船団フロンティアに存在しない《本物の空》を飛びたいとの憧れも、非日常に逃げ出したいと言うモラトリアム的な逃避のように感じられていました。
自身の逃避を認めることもできず、TV版序盤のアルトは常にイライラ。逃避を指摘するミシェルに対して特にひどかった。

TV最終回には長い髪で《本物の空》を嬉しそうに飛び、ランカとシェリル双方に親愛の言葉を向けます。歌舞伎かパイロットか、ランカかシェリルか。どちらも捨てきれず、どちらも選ぶことができない。「これから始まる」とキャラに言わせてお茶を濁してはいたものの、未消化感は否めなかったです。(つーか、シェリルと一時同棲までしておいて、中学生みたいな結論はないだろう。)

対して劇場版のアルトにイライラした言動は見られず、驚いたことに、最初から自身の逃避を認めていました。確かにTV版より精神的に大人だなあと。逃避の本当の理由、自身の弱さを他者(ランカ)に打ち明け、演技の仮面を外して胸の内を晒したのが、これも嬉しい衝撃でした。


シェリルは、TV版の時点から《発展途上のアルトとランカの前に、既に完成した存在として現れ、刺激を与える》スターキャラでしたので、劇場版で更に精神年齢が高まっているようではなかったです。
逆に、TV版よりも(いい意味で)幼くなっているように感じました。無垢で純粋な少女としての面が強調されているなぁと。アルトとの野を駆け巡るデートのシーンで顕著だったように思います。顔立ち(表情)も、TV版時より丸っこく柔和に描かれている場面が多かったように感じました。

最初のライブの楽屋裏でのみ、悪い意味で少し子供じみた面が描かれていましたが、それ以外は殆ど欠点のない、完璧な女性として著[あらわ]されていたと思います。


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劇場版からひとまず離れて、TV版の話。

前述したように、マクロスシリーズの柱の一つに《異星人との遭遇と軋轢、融和の模索》があります。
これまでのシリーズに登場した異星人はどれも、地球人と同系の姿、思考で言語も共有し得る、感情移入し易い存在でした。しかし『マクロスF[フロンティア]』では敢えて、人類とは全く異質な《宇宙昆虫》バジュラを設定したのだそうです。感情移入の困難な存在~真に未知なるモノとの《誤解》と和解、融和。その葛藤を描きたかったとか。

バジュラの意思~《キモチ》は脳でも胸でもなくお腹にあります。女王を中心に思考がネットワーク状に繋がっており、群れ全体で一つの意思を共有しています。肉体は強固で、宇宙空間も大気中も変わらず行動し、宇宙船以上の硬い装甲に覆われ、ミサイルやレーザーに似たものまで発射する。飲食はせず長生、卵で殖え、変態と脱皮を繰り返して巨大に成長していきます。
生物として神のごとく超越的で、人類とは全く異質な存在。
ただ、たった一つだけ、バジュラと人類に共通するコミュニケーション手段が存在しました。
それは《歌》。


初期案段階では、この物語の主人公はランカだったのだそうです。
事実、TV版では物語の核心~謎も真実も常にランカの側にあり、その面ではアルトは殆ど蚊帳の外にいました。

本人は知らぬことながら、ランカはバジュラの超時空ネットワークに感応できる能力を、生まれながらに持っていました。
バジュラの研究者を母に持ち、辺境の開拓星に落ち着いた移民船団に生まれ育ちましたが、彼女が四歳の時、星はバジュラの群れに襲われ滅亡。兄・ブレラのおかげで生き残ったものの、精神的外傷(と、計らずしてブレラの与えた暗示)から記憶障害を起こし、それまでの記憶を喪失。言葉や感情を取り戻すまでにも時間がかかったようです。そして、身近な人間が大きな怪我をするなど、故郷の滅亡や独りぼっちの恐怖を喚起させる事態が起きると、発作的に錯乱したり体調を崩す障害が残りました。
救助に駆け付けた、当時 軍パイロットだった若者・オズマが、責任を感じてランカを引き取り、愛情深く育ててくれましたが、彼も独り身で仕事が忙しく、精神的に不安定なランカを抱えて苦労したようです。

シェリルのライブの日にバジュラがフロンティア襲来、数百名が死亡。シェリルの故郷の移民船団ギャラクシーがバジュラに滅ぼされたとの報が入り、《憎むべき侵略者・バジュラ》の認識が人々に周知されます。
やがて、ランカの歌声にフォールド波が含まれることが判明。それで交信するというバジュラの動きを鈍らせる効果が確認され、彼女は生体兵器(名目上は希望の歌姫)として軍船に乗りこみ、戦火の中で歌うことになります。

※フォールド波とは、光年の距離にも時空間の断裂(フォールド断層)にも関係なく、リアルタイムでの交信を可能とする波動のこと。これが安定利用できればネットワーク技術は数段飛躍しますが、未だ人類はそれを使いこなす技術を得ていません。ところがバジュラは自前の能力としてフォールド波を使い、超時空的なネットワークを形成して《キモチ》を伝え合っているのでした。
※なお、シェリルのイヤリングに付いた《想いを伝える石》は、正式にはフォールドクォーツと呼ばれます。この石にも微弱ながらフォールド波を発生させる機能があります。実はバジュラの腹内で生成されるもので、バジュラを殺して死骸から回収する以外の入手方法がありません。人類はこれを使用して、空間に作用する超兵器も開発しています。


養兄やアルト、街の人々を死なせたくない《キモチ》から望んで作戦に参加したランカでしたが、兵器として歌うことへの疑問と葛藤は少しずつ膨らんでいきます。その《キモチ》を後押ししたのが、ランカの歌で攻撃を止めたバジュラ達が殺されるたびに、鋭い痛みの形で腹部に感じられるようになった、バジュラの死の間際の《キモチ》でした。
人の死はランカの胸を刺しますが、バジュラの死は腹を刺すのです。

ランカを含め誰もが、彼女が歌えばバジュラは無条件に無力化するのだと《誤解》していましたが、本当は違った。
ランカが恋の喜びに満ちた《キモチ》で歌えば、バジュラ達も楽しげに踊って攻撃などしない。しかし失恋したと《誤解》した直後に悲嘆を抱えながら歌うと、たちまち錯乱して暴れ出しました。今までバジュラが無力化していたのは、彼女の「殺さないで」という《キモチ》に感応していたからだったのです。

凶暴化したバジュラにより、目の前で友人たちが死傷。呆然としたままアルトに手を引かれて避難したランカは、幼い頃、同じような混乱の中を誰か(兄・ブレラ)に手を引かれて逃げたことをぼんやり思い出します。
騒ぎはランカが囮となって集めたバジュラ群を超兵器で殲滅する方法で収拾されましたが、殺されたバジュラ達の死の間際の《キモチ》は、またも痛みとなってランカを苛[さいな]むのでした。

壊滅的打撃を受けたフロンティア船団は、逆にバジュラの母星に戦いを挑むと決断。バジュラを滅殺して、その豊かな星を奪い取るしか自分たちが生き残る道はないと、戦いの声を上げました。しかしランカは兵器として歌い続けることを拒否し、人々に憎まれます。
一方、ランカが可愛がっていたペット・アイくんが、実はバジュラの幼生だったことが明らかになります。アイくんはランカの孤独な《キモチ》に感応し、寂しい時は慰めてくれ、楽しい時は一緒に喜んでくれました。むやみに人を襲うような危険な存在ではなかった。しかしこのままフロンティアにいては殺されるでしょう。

バジュラは本当に危険なだけの存在なのか。このまま戦い続けていいのか。互いに生き残る道があるのではないか。
ただ歌えば人々を救えるわけではないのではないか。
断片的に思い出されるようになった記憶にはバジュラが関わっている。失われた自分の過去に何があったのか。

ランカはバジュラの母星へ向かうことを決意。せめてアイくんを仲間に返そうと考えます。そして、ほぼ無理だと悟りつつも一縷の望みをかけてアルトに頼みに行きました。共に来てくれないかと。
ですがアルトにはランカの《キモチ》が伝わりません。彼にとってバジュラは訳もなく襲来した侵略者であり、親友を殺した憎い敵でしかなかったからです。向こうが襲ってくるのだから、そうしなければ自分たちが生き残れないのだから、皆殺しにするのが当然ではないか。アイくん自身は誰も傷つけたことがないとしてもバジュラなのだから殺して当然だ。どうして融和の道を探る必要があるのか理解できない。
話は決裂し、ランカはアルトに別れを告げるとフロンティアから飛び去ったのでした。


…と、長々とあらすじぽいものを書きましたが、『マクロスF[フロンティア]』という番組は、枝葉を落とせばこういう話……でしたよね? 殆ど放映時の記憶頼りなので間違っていたら申し訳ないです。

ランカ出奔前後のエピソード放映当時、激しい批判感想がWEBに溢れていました。プロなら常に滅私して完璧に行動するべきなのに《キモチ》にこだわるランカは自己中心的だ、とか。或いは、人類の敵にどうして肩入れするのか理解できない殺された人に申し訳ないと思わないのか、とか。酷い意見になると、ランカの言動は全く理解できなくて気持ち悪いとか、蟲に腹を食い破られて死ねばいいとか、バジュラ被害は全てランカのせいなのだから責任をとってバジュラと共に宇宙の果てに去って帰ってこなければいいそれが理想的な結末だ、とか。

とても悲しかったですし、驚きもしました。
作中人物のアルトがここでランカの《キモチ》を理解できず《誤解》するのは作劇上の予定調和ですが、神視点でここまでの流れを見てきた視聴者がそこまで言うのか、と。
そして改めて感じました。製作者が挑んだ、真に未知なる異生物との融和という命題の困難さを。


バジュラは本当に、凶悪な敵でしかないのでしょうか?

バジュラをフロンティア船団に呼んだのはシェリルです。フォールドクォーツのイヤリングを着けた(そしてバジュラの体内菌に感染した)彼女の歌声には微弱なフォールド波が含まれ、バジュラ達には微かな呼び声と認識される。シェリルのバックアップ団体はその目的で彼女を育て、船団を渡るツアーを組んでバジュラをフロンティアに導いていきました。この船団を選んだのは、バジュラの縄張りと思われる宙域に向かう航路をとっていて都合が良かったからです。

バジュラの力は多大な利権と可能性をもたらします。複数の勢力がそれぞれの思惑で狙い、フロンティアの航路の先にあるらしいバジュラの母星をあぶり出そうとしていました。そこには超時空思考ネットの中枢たる女王バジュラ(バジュラクイーン)がいるからです。ギャラクシー船団がバジュラの襲撃で壊滅、という事件さえ大掛かりな狂言で、フロンティアをエサにして、女王バジュラを襲う機会を待っていたのでした。

シェリルの歌声に呼ばれてフロンティアに近づいたバジュラを、(ランカの故郷滅亡の前例もあって警戒していた)フロンティア軍は即座に攻撃、戦争になりました。シェリルの歌声を追ってフロンティア内に入ったバジュラは、ランカの悲鳴に含まれるフォールド波を聞き、理解し難い不気味な生き物たち(人類)に仲間が囚われていると認識。なんとか救出しようとし始めます。

バジュラを呼んだのも、疑いなく攻撃を仕掛けたのも、彼らの領域を侵し害そうとしたのも人間。
そう。凶悪な侵略者はバジュラではなく、人類の方だったのです。


この戦争は、バジュラとフロンティアの人間たち双方の、異質なモノへの反発と無理解、《誤解》で拡大したものでした。
そもそもランカの故郷滅亡の顛末も、幼いランカの無邪気な歌声に呼ばれて現れたバジュラを、人類が「侵略だ」と決めつけて対処しただろう《誤解》が悲劇の一因になったのかもしれません。(そしてバジュラ側も同じように《誤解》していた。)


最終回、フロンティア軍とバジュラ群は共闘して《悪い人間》を撃破。
共闘中、バジュラ達は身を犠牲にして人類の船を守りさえしました。その死の間際の《キモチ》が、ランカと、彼女と同じ体質になったシェリルと、フォールドクォーツのイヤリングを着けたアルトの、三人全員に痛みとして伝わる描写があったと思います。少なくともこの三人はバジュラたちと《キモチ》で通じ合えた……のでしょうか。

戦いが終わると、バジュラの女王は群れを率いて銀河に飛び去り、疲弊したフロンティアに母星を譲り渡してくれました。彼女たちは《誤解》だったことを認めると、赦すどころか多大な補償までしたわけで。

人類の方はどうなのか。バジュラを赦せたのか。今後もバジュラを狙ってフォールドクォーツを奪おうとし続けるのか。
ちょっと考えさせられる結末ではありました。


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劇場版はTV版とはちょこちょこ設定が変えられているようで、バジュラをただの《敵》にする可能性もなくはないのかなと思います。
前編には、ランカやシェリルの歌がバジュラの動きを止める場面がなかったですし(強いて言うなら、TV版からそのまま使った場面では、ランカの悲鳴で一瞬動きが止まってましたが)、バジュラが撃破されるとランカのお腹が痛む場面もなかったので。

バジュラがランカを連れ去ろうとする理由も、どうも少し変えられているっぽい。劇場版ランカ母は娘がバジュラに狙われるかもしれないと考えていたようですし。
劇場版のランカは、単にフォールド波を出せるというだけでなく(それだと劇場版シェリルも同等なので)、バジュラにとってよほど特別な存在? ランカを連れ去ろうとするのはオスのバジュラだと(インタビュー等で)強いて説明されているので、救助ではなく求愛だったりして(笑)。


劇場版のシェリルは序盤からイヤリングなしで微弱なフォールド波が出せたようで、終盤、(バジュラにさらわれたランカを救おうとして)撃墜されかけたアルトを助けたくて、強力なフォールド波を発して歌えるようになりました。
グレイス曰く「コードQ1(ランカ)の力がフェアリー(シェリル)の眠れる力を呼び覚ましたと言うの!?」ということらしい。
んん? アルトへの恋心じゃないのか。実はランカを救いたいあまりフォールド波を強めたんでしょうか。

ちなみにランカも最初は微弱なフォールド波しか出せていなかった模様。
「私が育てたフェアリー9[ナイン]、シェリル・ノームは、喜びだけでなく、怒りも悲しみも力に変えて歌える逸材です。明日はきっと彼女の歌がコードQ1の眠れる力を目覚めさせることでしょう」とグレイスが言っていました。
…フォールド波は互いに共鳴して増幅し合う特質か何かがあるんでしょうか?
明言されませんでしたが、ランカも最後にシェリルと共にバジュラ撃退を歌ったことで力が目覚めたのかな?(バジュラとしては、微かに呼ばれたから来たのに、来てみたら大声で帰れソング歌われて困惑したことでしょうね。)


TV版とは違い、(どこまで正しく教えられているかは怪しいものの)シェリルは自分のバックアップ組織の計画についても知っている模様。各船団をライブツアーで渡り歩く傍ら、何かを探していたらしい。グレイスと「覚悟はいい? もしここにもターゲットが見つからなければ、あなたは」「グレイス、私はシェリルよ。シェリルはいつでもどんな時でも、全力で歌うだけ」と意味深な会話をしていました。
ついランカのことかと思わされますが、ミスリードのような気がします。グレイスとその仲間がランカを探していたのは確かですが、ここでシェリルが捜すよう言われていたのは別のもののような。(ライブで歌えば人探しできるわけじゃないですしね。)

TV版から設定があまり変わっていないなら、誘いの歌をばらまきながらバジュラを呼びよせ、バジュラ母星探索の手がかりにしようとしている、ということになるのでしょうけど。
(ブレラのシェリルに向けた「申し訳ありません。バジュラの侵攻が予想より早すぎました」という台詞から、シェリルの歌に誘われバジュラが出現するのは想定事態。
ラストのバジュラ襲撃場面でも「私の歌だって少しはバジュラに!」と叫んで歌ってましたし、自分の歌に微弱なフォールド波が含まれバジュラに作用することを知っている。
ただし、シェリルは街が襲われるとは思っていなかったようですね。)

話を捻るなら、「バジュラを捕獲して血清を作ることが出来なければ、あなたは病気を治せず命がないのよ」って可能性もあるのか。グレイス達は本当はバジュラの力を求めているけれど、シェリルにはそう言い聞かせて協力させている、とか。

フロンティアはバジュラ本星一番乗りで資源独占を目論む酷い奴らだという噂がギャラクシーには蔓延しており、シェリルも信じていたそうです。バジュラの存在知識も、その星で富を得られると言う思想も、ギャラクシーでは一般化しているんですね。


ところで、劇場版シェリルの過去設定ってどうなってるんだろう? と気になりました。
TV版~周辺展開物のシェリルは幼い頃に政治的抗争で両親を亡くし、半年ほどスラムで浮浪生活をしてグレイスに拾われた、という設定でしたっけ。そして自分の祖母が有名な科学者マオ・ノームだと知らない。
劇場版のシェリルも浮浪児時代があったらしいですが、祖母の名を正確に知っており、ケータイの中には祖母の写真データも持っている。(その写真には幼いランカも映っているのですが、まだその女の子がランカだとは気づいていない模様。)
何より、TV版ではランカが亡き母から受け継いだ特別な歌だった『アイモ』が、シェリルの祖母がとある惑星で聴いた歌を娘(シェリルの母)に伝え、母からシェリルに伝わったものだと語られており、他に誰も知る者のいない特別な歌を知るランカにシェリルが興味を持つ、という切り口になっていました。シェリルとランカを結ぶ運命的な絆の歌、って感じ。

正直、目立つ(高価な)イヤリングを身に着けたまま奪われもせず幼女が浮浪生活をやっていけたと言う設定だけでも少し不自然感があるのに、十年以上前のプライベート写真のケータイデータまで持ち続けている。浮浪児になったからには家があらゆる意味で崩壊したんだと思うんですが、幼いシェリルはケータイは持ったまま浮浪してたってことでしょうか。それとも、写真は(シェリルの祖母の部下だった)グレイスに貰ったのかな?


話変わりますが、個人的に、シェリルが『アイモ』を歌うランカをこう評していたのが嬉しかったです。

「ほんと、運命的な歌かもね。……あの子の歌、いい響きだったわ。可愛いんだけどなんかちょっと哀しいって言うか。独りぼっちで、そう、人間って言うより鳥とか森に聞かせてるって言うか」


ランカもシェリルも、容姿と才能と人脈に恵まれて沢山の人々に愛された幸福な少女ですけど、それぞれ過酷な生い立ちや病(体質)を背負っていたり、本当の自分を隠した同質の孤独を背負っている。だからランカの寂しい《キモチ》をシェリルは感じ取れるのかな、とか。

TV版19話に、失った記憶の断片をランカが夢に見るエピソードがあります。
幼いランカが茫漠とした草原で「ママがいない」と泣いていて、兄・ブレラの「お仕事が大変だから、みんな(ママを)帰してくれないんだよ」と慰めるイメージが見える。すると「寂しいの? ならいい方法があるわ」と優しげな声が聞こえます。
この夢は最後がバジュラのイメージで終わるため、囁いた声はバジュラで、ランカが唆[そそのか]されて何か罪を犯したかと解釈してしまいそうになりますが、これもミスリードですよね。
EDクレジットで確認するに、声はランカの母・ランシェのものらしい。また、最終回から考えても、バジュラは何の策謀もしていませんので。
ここで母・ランシェがランカに教えた、寂しい時のいい方法というのは、歌うことなんだと思うのです。(余談ながら、この頃ランカ母はV型感染症の進行で余命が少なかったはず。)

物語序盤、ランカは丘で独り『アイモ』を歌っています。いつも誰もいない場所で歌っているのだと、たまたま出会ったアルトに打ち明ける。
実母がそうだったように、養兄オズマも、愛情深い人ですが仕事が忙しく(夜勤も頻繁)、あまり家にいられない様子でした。妹のプチ家出に取り乱すほど心配しても、仕事のため自分で探しに行くこともできない。
子供の頃から、ランカは寂しいとき独りで歌っていたのではないでしょうか。
(それが、アルトとシェリルとの出会いによって、誰かに聴かせるための歌~《キモチ》を伝えるコミュニケーション手段に変化していく。)


で、それはそれとして。
前述のシェリルの『アイモ』評、別の意味も含めてあると言うか、伏線にもしてありますよね。
人間というより鳥に聞かせているような歌。
TV版の設定のままなら『アイモ』はバジュラの歌で、バジュラを模して造られた兵器が《鳥の人》。ついでに、それを管理していた巫女はシェリルの祖母の一族。
この映画、何気ない会話にも色々伏線を仕込んであると言う話ですが、これもその一つなんでしょうか。



その他気になった点としては、アルトとシェリルのデートシーンにて、シェリルが手に擦り傷を負った時、お前はフロンティアの細菌に免疫が出来ていないからと、アルトが血を吸って吐き出す、ちょっと変な場面。
(毒なら解るけど、菌を気にするなら、逆に人間が吸ってはいけないと思うよアルト君。君から感染る。)
TV版だと、終盤のランカ出奔期間、アルトとシェリルは一時同棲していて、血液感染するV型感染症にアルトもシェリルから感染したのではと感じさせる部分があるんですが。劇場版ではこれで代えたのでしょうか? TV版と同様に、最終決戦でアルトもバジュラの超時空ネットワークに完全感応するでしょうし、その状況を強化させるための仕込みとか。


次に、アルトとランカのデートシーン。一度は芸の高みに登った者の視点からシェリルを評し、芸を捨てた自身を語るアルト。道を登り始めたばかりのランカは、二人が彼方の高みにいること(と、アルトがシェリルに惹かれ始めていること)を感じて「何だか遠いね。こんなに近くにいるのに、すごく遠い」と寂しそうに呟きます。
この時、ランカは両手をお腹の上に重ねて痛みを抑えるような仕草をする。
すると、しばらく考えてから、アルトが同じ仕草をするんですよね。(この時、二人の乗る電車は大きな川に架かった橋を渡り始める。)そして自分の奥底に隠していた《キモチ》を打ち明け始めるのです。

「怖かったのかもしれない」「舞台の上で色んな役を演じて、役になりきる。役になりきれって言われてるうちに、感じる力が強くなりすぎて」「役に取り憑かれるって言うか、男なのか、女なのか、自分が本当は誰なんだかさえ判らなくなって。早乙女アルトなんて存在が、この世から消えて行っちまうみたいで。それが怖くて、舞台から逃げ出したんだ」


この演出は多分意味があるのだろうなぁと思いました。
なにしろランカのお腹はバジュラの超時空ネットワークに繋がっていて、彼女の《キモチ》にも直結している。

ランカがお腹を押さえ、アルトが同じ仕草を返すこの場面には、《なりきり、演技》と近い、アルトがランカの《キモチ》を理解しようと能動的に動く、という暗示があると思います。で、自分の《キモチ》を伝えようともしている。
この時点ではまだ、シェリルに「ランカちゃんはあなたが大好き」と指摘されても「まさか」と笑ったくらい《キモチ》は通じていないんですが、最終回ギリギリまで《誤解》し合い すれ違ったままだったTV版とは違い、アルトとランカにも もっと積極的な歩み寄りと通じ合いが用意されているのではないでしょうか。


で、この場面と対になっているのが、アルトがフォールドクォーツ(シェリルのイヤリング)を着け髪をほどいて鏡の前に立ち、シェリルに《なりきる》ことで、彼女の奥底の寂しい《キモチ》に感応する場面。
やはり能動的にシェリルの《キモチ》を理解しようとし、ここでは、クォーツのおかげかネットワーク接続に成功しています。

TV版アルトの超時空ネットワークへの感応(戦闘中にランカやシェリルの歌声を感じるとか)は、殆どフォールドクォーツの性能というだけな感じでしたが、劇場版ではアルト自身にもシャーマン的な感応力があるのだと、設定を強化したようですね。しかも、元々あった歌舞伎役者設定に絡めてあって、とても上手くはまっているように思います。

シェリルが物語前半からランカと同等のフォールド波を発したり『アイモ』を知っている設定変更もそうですが、TV版ではランカ一人に負わせていた謎や宿命を、主役三人に分割しているようで。色々と期待が膨らみました。


それからもう一つ。
アルトが芸の世界から逃げ出した本心を吐露した場面の続き。存在喪失の恐怖に震える彼の手を、ランカが両手で包みこんで、母親のように優しく宥めます。

「アルト君はアルト君だよ」「どんなことがあっても。どんな時だって」「アルト君はアルト君だよ」


ランカは、そんなに怖いならもう演じなくていいとは言わない。いいえ演じるべきよとも言わない。演じようと演じまいと、過去何者でどんな道を選ぼうと何者になろうと、アルトはアルトであって存在は決して消えたりしないと、完全な存在肯定をする。

この台詞も、今後に繋がっていくのだろうなぁと思いました。
後編、感染症の進行で歌手引退に追い込まれそうなシェリルにアルトがそう言うとか。
或いは、過去を思い出して絶望するランカに、アルトやシェリルがそう言うのかもしれません。


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後編のサブタイトルは『恋離飛翼~サヨナラノツバサ』。
「恋離飛翼」は中国故事の「比翼連理」をもじったもので、「サヨナラノツバサ」には三つほど意味がかけてあり、うち一つは神話的な意味だそうです。
…神話?

そういえばTV版放送当時、原作者でもある監督さんが、アルト、ランカ、シェリルの三角関係は、天文学で言う夏の大三角形だと発言して話題になったことがありましたよね。
夏の大三角形を形作る三つの星は、鷲座のアルタイル、琴座のベガ、白鳥座のデネブ。アルタイルは中国の神話伝説では牽牛(日本で言う彦星)、ベガは織女(織り姫)。デネブの含まれる白鳥座は、天の川に身を沈めて牽牛と織女の架け橋となるカササギに相当します。

七夕伝説にはいろんなバージョンがありますが、民間伝承としてよくあるのが、星界から舞い降りた天女を男が妻にして、けれど天女は羽衣をまとって飛び去り、男は追うが天の川に隔てられてしまう……というやつ。
「サヨナラノツバサ」というサブタイトルからして、ヒロインのどちらか又は双方が飛び去ってしまうんでしょうか。あるいはアルトが戦闘でどーにかなったりして。そして隔てられる?

TV版は、結局 七夕伝説とは似ても似つかないところに着地してしまったので、この発言も忘れ去られていたわけですが、当初の構想に戻った可能性も……?

思えばこの監督さんが原作を担当した過去のロボットアニメ『天空のエスカフローネ』『創聖のアクエリオン』だと、三角関係の果てにヒーローとヒロインの心が深く結ばれるものの、運命に隔てられて離れることを選ぶ、純愛悲恋的な結末でしたよね。

#そういえば、七夕伝説の有名なバリエーションの一つに、結婚した牽牛と織女が互いに夢中になリ過ぎて仕事をしなくなったので天の川で隔てられたと言うのがありますが、劇場版『アクエリオン』は、ヒーローとヒロインが結ばれると互いしか見なくなり創世の光が強くなりすぎて世界が滅びかけて、三角関係のままが一番バランスがいいんだ、という超結論になっていたような…。

……ナアナアにして決着がつかないよりは100倍ましとは言え、想い合いながら別れたり、誰かが死ぬような結末は後味が悪いので、出来れば、カササギなり白鳥なりバジュラなりに、翼で橋をかけてほしいものだと思います。


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などと好き勝手に書きましたが、来月に後編が公開されれば、全て笑い話になるでしょう。
私は多分、劇場には見に行けないので、観ることが出来るのはDVD/BDの出る半年~1年後でしょうか?
とりあえず、劇場で見た人たちの感想を楽しみにしたいです。
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【2011/01/15 16:26】 | すわさき・感想
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初日初回に観に行ったのは、はじめてかも。いつもは上映が始まってちょっと日にちが経ってから観に行くのですが、観に行ける日が、今日しかなかったもので。
相棒2
続きはいつかなぁ。
というのが、観た直後の思いだったり。
もう一回みたいですにゃ。
シーズン9で姿見ないと思ったら…。

【2010/12/23 20:15】 | ちゃすか・感想
【タグ】 映画の感想  
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ブリチ映画を観てきました。
映画館の音響で、主題歌を聴けて大満足でした。また主題歌だけ聴きに行きたいです(おいおい)
この表現はあんまりですねm(_ _)m
楽しかったです。
ヒメの私服がかわいかったですv

上映ぎりぎりに劇場に滑り込んで、映画が終わって周りを見たら、ぼっちゃんが多かったので、普通に人気があるのねぇとある意味感動しました。
見に来るのは、おねーさんが多いのだろうと思い込んでいたからさぁ。

【2010/12/05 19:26】 | ちゃすか・感想
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「魔導データ館」、魔導大事典を更新。
ロードさんの『ぷよぷよ! The Medal Edition』のデモデータを追加(今回はクルークVSアミティのデモのみです)。

「虎の穴」を再開。偽善者少年さんの「魔導士と科学少年 聖剣編」最終話までアップ。

投稿ありがとうございます。


虎の穴の投稿の決まり、先日のルール変更を機に、内容を少し整理・一部詳細化してみました。
お時間のある方は読んでやってください。


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今、必要があって近くの都会に定期的に通っているのですが、隙を見てジブリの『借り暮らしのアリエッティ』を観てみました。

……むむう。微妙に後悔しました。わざわざ観なけりゃよかったかも…。観ずに「面白そうだなぁ」と思っていればよかったかも。

脚本がすこぶる不味いと思うのですが、どうなんだろ。世間的評価は高いのでしょうか。
特に、ラスト近くの翔少年の台詞がお粗末というか、物語として不細工過ぎて、観ながら「・・・・」と変な顔になってしまいました。感じさせるべきストーリーを台詞で語らせちゃってるよ。これは作劇のタブーではないのだろうか。
小人の生活描写だけは面白かったですが…。(ポットのお茶などの液体の出方とか。よく観察してるよねぇと思った。)

とゆーか、原作はイギリスが舞台なのを、何故か現代日本に変更してあるのですが、何の意味がある変更なのか。何もいい効果を生んでいないよーな。取材や考証の手間を惜しんだだけにしか思えなかった。

どうでも日本を舞台にしたいなら、いぬいとみこの『木かげの家の小人たち』辺りをアニメ化した方がよかったんじゃないかなと思いました。戦争色が嫌なら『誰も知らない小さな国』とか。

【2010/07/20 01:14】 | はてなどう更新管理
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映画「花のあと」公式サイト

これは、個人的にはすっごく面白かった!

2010年の日本映画。時は江戸、海坂という架空の藩を舞台にした時代劇です。
藤沢周平の短編小説を映画化したもので、物語としてはシンプルですが、決して物足りなくはありません。キャラ萌えできる素敵なラブストーリーなのです。加えて凛々しい女剣士のチャンバラも見応えがあります。

前半の雰囲気は、同じ作者の短編小説を映画化した『山桜』によく似ています。が、後半からガラリと変わるのです。
平たく言いますと、前半と後半でヒーローが変わる。ヒーローのカラーで作品のカラーも変わっちゃう感じ。そして私は、後半のヒーローにして主人公の許嫁[いいなずけ]、片桐 才助(演:甲本雅裕)がむっちゃ気に入ってしまいました。いいよ、彼はいい!


寺井 以登[いと]の父は藩の組頭を務めている。若き日は剣の道に生きることを夢見、新婚の妻を置いて江戸の道場に十年ほども留学していたが、家を継ぐため諦めた経緯がある。生まれた子が女で多少の落胆をしたのは事実のようだが、諦めきれず、その一人娘・以登に江戸で学んだ剣術を厳しく仕込んだ。以登もそれによく応え、真剣に剣の道を学んだものだ。

つい先日も、父は以登を連れて藩内の羽賀道場へ行き、練習試合を頼んだ。男たちは以登の剣にコテンパンにのされたが、剣を交える前に所詮女よと侮られたことは以登の心に僅かな陰りを残していた。

それからしばらく過ぎた春の日。満開の桜を見に行った折、見知らぬ若侍が以登に声をかけた。目元涼やかなその男が名乗った江口 孫四郎[まごしろう]という名に、以登は憶えがあった。彼は羽賀道場いちの使い手だが、先日は留守にしていて対戦できなかったのだ。孫四郎は屈託なく以登の剣を褒め、いつか手合わせしたいと言って立ち去った。

ただそれだけの出会い。
しかし、彼の言葉は何故か以登の心に焼きついた。江口さまと試合がしてみたいとこぼすと、父は驚いた顔をして娘を見つめた。そしてしばらく後、本当に試合の約束を取り付けてくれた。

寺井家の庭で試合は行われた。以登は敗北したが、倒れかけた彼女を孫四郎が支え、刹那、二人は見つめ合った。その様子を父は見ていたが、何も言わず、孫四郎に庭を案内して茶を点ててもてなすよう言って立ち去った。

何事もなく孫四郎が帰った後、父は言った。「満足したか」と。「しかし二度と会うことはならぬ。お前には許嫁がいるのだからな」。
父があえて会う機会をもうけてくれたのだと以登は悟った。せめての思い出にするために。この時代、結婚は恋愛の先にあるものではなかったから。以登自身もそれをよく承知しており、想いを断ち切ることに何の異論もなかったが、孫四郎にも縁談が進んでいると聞くと、僅かに胸の痛みを感じたのだった。

さて、以登の許嫁を片桐 才助と言う。
一人娘の以登は婿養子をもらって家を継がねばならぬ。父が見込んだ才助と十四歳ほどの頃に婚約を交わしたが、彼はすぐに江戸の学問所に留学し、そのまま四、五年ほども帰っていなかった。一時帰国した時も以登とはすれ違ってしまい、会えないまま時は流れた。

しかし以登は構わなかった。元々好きで婚約したわけでなし。友人が先に結婚してしまったのは多少きまり悪かったが、むしろ気楽に過ごしていた。

ところが、そんな才助がとうとう帰国したのだ。父が、春になったら祝言を挙げよと定めた。
久しぶりに見た才助は、相変わらず風采が上がらぬ。にこにこと愛想がいいが、締まりがないとも言える。飄々として、まだ式を挙げていないのに食事に呼ばれて何杯もおかわりをするし、すれ違いざまに以登の尻を触るような助平だ。涼やかで礼節正しい孫四郎とは比べるべくもない。

その頃、孫四郎は別の女と結婚して婿養子に入っていた。彼の妻が藩の重役・藤井 勘解由[かげゆ]と結婚前から不倫をしていることは女たちの間の噂で知っていたが、以登にはどうすることもできないし、関わるべきことでもない。
ところがある日、父が少し言いにくそうに以登に告げた。孫四郎が江戸の藩邸で自害したと。

何故、孫四郎は自ら死んだのか。
仕事であり得ない大失敗をしたためとのことだが、どうして彼ほどの男がそんな失敗を。

納得できなかった以登は、才助を呼ぶと事件の真相を調べてほしいと頼み込んだ。
才助は仔細を問わずに快諾し、手早く藩中を歩き回ると、すぐに情報を集めて戻って来た。やはり、藤井 勘解由の陰謀だったのだ。孫四郎は陥れられ、自ら死に向かったのである。

以登は、勘解由と二人きりで会わせてほしいと才助に頼んだ。一緒に行こうかと言う申し出を固く断って。彼は戸惑った様子ながらこれにも応じてくれたが、帰り際に、前から聞きたかったがと、恐る恐ると言った様子で尋ねた。どうしてそこまでするのか。孫四郎殿と何かあったのか? と。「何も」と静かに以登は返した。ただ一度、剣の試合をしただけです、と。

それでも。女と侮らずに真剣に剣を合わせてくれた。そんな男は、孫四郎だけだったのだ。

以登の心を、才助は知る由もないだろう。ただ彼は笑った。そして言ったのだ。
「なんだ、そうか。そんな事だろうと思った!」
小馬鹿にしたようでもある。だがその表情は明るく、心から安堵しているようだった。

その日の早朝、以登は日本髪を解いて一つに束ね、剣術用の袴をはいて真剣を持ち、指定した林に向かった。
案の定、勘解由は罪を懺悔することなく、秘密を知る以登を亡き者にしようと刺客を差し向けてきた。
実らなかった初恋、しかも相手に知られることすらなかった幻のごときもの。それっぽっちの、けれど己にとっては一生に一度の恋のため、以登は命をかけ、たった一人で剣を抜いた…。


チャンバラシーンは見応えがありました。
以登役の女優さん(北川景子)が、しっかり剣術の練習をしているように感じました。彼女が剣を振るうシーンが何度かありますが、重心が安定していて、少しもふらふらしてないのです。少なくとも見た目は、振るう剣がしっかり鋭く重く感じられました。こういうのは男優でも珍しいように思います。ひどい役者になると殺陣[たて]がフワフワ踊りにしか見えないですもんね。

映画を観てから原作を読んだのですが、映画を観たとき感じたことと原作で書かれてあることが食い違って感じられた部分がありました。
才助が「孫四郎殿と何かあったのか」と尋ねて、「剣の試合を一度しただけ」という答えを聞いて「そんなことだと思った」と笑うシーン。原作を読むと「小馬鹿にしたように笑った」という風な一文しか書いてないのですよね。
でも映画で見た時は、確かに以登の真剣な想いを小馬鹿にしたと言えるんですけど、何だか違う印象を抱いたんです。

と言うのも、原作者が同じ『山桜』の似たような場面では、主人公は夫に邪推されひどく罵られるから。才助も以登と孫四郎の関係を邪推し嫉妬して激怒するんじゃないかとビクビクして観ていたんです。
ところが才助は度を超えた邪推なんてしなかった。そして「その程度か」と笑ったわけです。
小馬鹿にしていると思うより先に、度量の大きな男だなあ、と感じたのでした。

それまでは、物語の中の以登と同じ視点で、孫四郎と比べて冴えないオヤジだ、という見方をしていたんですが、以登の真剣な頼みを四の五の言わず引き受けてくれた態度に優しさを感じ、サッと探偵仕事をこなした点には有能さを感じて。そしてこの場面でとどめを刺された。見る目が180度転換したのです。
平たく言いますと、萌えた!(笑)

その後がまたいいんですよ。
初めての殺し合いに臨んだ以登は、腕を斬られながらも起死回生の一撃で勘解由を倒す。
ぐったりしてうずくまっていると、静かに才助が現れる。以登の意地のために手を出さずに見守ってくれていたんですね。で、以登の止血をしてくれ、自分の上着をサッと着せかけてやり、後始末は自分がするから人に見つかる前に帰りなさいと言うの。
うわ何この封建時代らしからぬ紳士は!
で実際、完璧に後始末をしてくれちゃう。勘解由は別件でかなり大掛かりな犯罪を犯してまして、それも才助は調べ上げていた。結果的にそれが公けになります。そして、才助の細工により、そっちのラインで誰かが勘解由を殺したんだろうということになり、以登は勿論、才助にも捜査の手が伸びることはありませんでした。

原作を読んで知ったんですが、映画版は原作よりも才助をカッコよくしているんですね(笑)。
原作だと、以登は交渉決裂と見るや何の躊躇もなく一突きして、無傷で勘解由を殺してしまう。女暗殺者みたいですな。才助が現れますが、死体を見てオロオロ動転。大変だ返り血が着物を脱げと迫って、冷静な以登に何言ってるのと突っ込まれる。こちらでも才助は以登を逃がして後始末をしてくれますが、五十年後の以登は「お粗末なものじゃった」と酷評(苦笑)。

この話、実は五十年後の以登が孫たちに自分の初恋話を物語る、という形式でして。
夫・才助への以登の評価は、実に辛辣で散々なものです。
でもですね、才助はその後、昼行燈と言われながらもどんどん出世して、ついに老中になったそうで。以登も彼女の友人も、才助は風采が上がらぬ賢そうに見えぬと評価していたんですが、父の婿選びの目は正しかったらしい。家では冴えないようにしか見えなかったが、これだけ出世したからには私には解らない才能があったということらしい、と五十年後の以登は辛辣に語ります。
ところが才助は、以登に「あろうことか」七人も子を産ませたのだそうです(笑)。才助が亡くなって一、二年くらい経って、沢山の孫たちを集めてこんな昔語りをしている。
こうした語りを聞いていると、夫婦仲は実は円満だったんじゃないかな、と思えてきます。
つまり、以登さんはツンデレ…!?


五十年後の以登のナレーションを被せながら、物語の最後は再び満開の桜の下になります。
以登が初めて孫四郎に出会ったあの日と同じ。
その桜の下に、今は才助といる。

で、五十年後の以登は語る。花は以前と変わりないのに、何故か、その日の桜の色が寂しく見えた。それは自分の青春の日が終わったからだったのかもしれない、と。

このナレーションを映画館で聞いた時、違和感を感じたものでした。
ナレーションだと「輝かしい日は終わった」という悲しい感じなのに、絵や雰囲気はとても明るかったから。花は綺麗で、以登と才助はいい雰囲気で。
何より、映画を見ていた私は才助に魅力を感じるようになって、以登の初恋は悲しく終わってしまったけど、これから才助との新しい恋が始まるんだな、と理解・期待していたからです。
あれ? 才助はあんなに素敵なのに、彼との結婚生活は輝かしくはないのかな……。

けれど、この違和感は原作を読んで解消されました。(ナレーションは原作からそのまま採られたものでした。)
原作ラストシーンの以登は実は結婚後で、既に腹に第一子がいる。その状態で結婚前を思い出して少し寂しく思い、それからその場所に花見に行かなかった、と締める。
娘時代の自分と決別し、地に足を付けた生活を始めた、という感じですかね。そう解釈すると才助との生活を否定しているニュアンスは消える…でしょうか。


孫四郎と才助は、対照的なヒーローだと思います。
孫四郎は仕事で失敗すると、恐らく自分が陥れられたことを悟ったでしょうに、一切言い訳せず誰にも相談せず戦うこともなく、すぐに自害しました。それは武士的で美しいとも言える。
けれど、孫四郎の死について調べる中で才助はこぼすのです。「だが、何も死ぬことはなかろう」と。
才助は武士の美徳からは外れた、決して涼やかではない男ですが、魅力的だと私には感じられました。


面白い映画でした。
前半、BGMをあまり使っていなくて、自然の音を多用していたっぽいのが印象的でした。
特に孫四郎と以登の試合の場面。ザワザワという葉擦れの音だけがずっと微かに聞こえていて、倒れかけた以登を孫四郎が支えたシーン、大きくザザザザザ…と葉擦れの音が響く。
なんとなく、少女漫画的な演出だと感じました。音楽ではなく、自然物によって《心の音》を表現する感じ。

才助の登場以降はBGMが多くなってきて雰囲気が変わった感じがしましたよ。
劇場で一度観ただけですから、単なる思い込みかもしれませんけど。


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