「はてなどう」「ナラカ」「円環伝承」共用。書き手は ちゃすかとすわさきの二人。
自ブログ記事を書くため「長文」のキーワードで検索していた折、タイトルにそう但し書きを付けた個人サイト記事が沢山出てきました。
幾つかをなんとなく拾い読みしたところ、どうにも頭から離れなくなったものが……。
何日経ってもモヤモヤが晴れなかったので、不毛ですけれど、記事にしてみることにしました。

くだらない雑感ですが、お暇でしたら、以下お付き合いください。

* * * * * *


読後不快感だけが残るレビュー (長文です)(枡野書店/枡野浩一公式ブログ)

このブログ主の枡野浩一さんは、現代歌人として著名な方なのだそうです。小説やエッセイ、漫画評も書いているとか。
要は、あるAmazonレビュアーのレビューが不快であると、名指しで批判している記事。

曰く、上から目線で偉そうだ、称賛より批判の方が重いのだから作家を気遣い謙虚であるべき。プロ作品を批判するに値するのは著名人または高能力者であり、名もなく低能力の素人にそんな役割は誰も期待していない。そもそも批判したくなる本を選んだ自分の責任であり、己の選定眼のなさをこそ反省すべきである、と。

最初に読んだ時、てっきり自作を酷評された作家が憤慨しているのかと思いました。営業妨害だと鼻息荒く結論していましたし、今までにも何度か、作家や編集者による似たような不満記事を目にしたことがあったからです。
ところが、件のレビュアーさんは枡野さんの本を★5つで絶賛していました。にもかかわらず、それを「喜べない」と流して、他作家へのレビューが酷いと吊るしあげていたのです。

正義感なのか、何なのか。
この疑問は、検索を続け、この記事へのリンクを張った別作家の公式ブログを見つけたことで氷解しました。

連休明けに思ったこと(とうすみ日記/東直子公式ブログ)

この東直子さんも歌人で、小説家であり脚本家でもあるそうです。
あれ? と思って見返してみれば、枡野さんの記事で最初に挙げられた「酷いレビュー」をされた本が、彼女のものでした。
色々見てみるに、彼女と枡野さんは歌人仲間として交流があるらしい。


Amazonレビューには、レビューそのものを閲覧者が評価できる自浄的な機能が付いています。コメントを付けることもできる。
その「酷いレビュー」は他閲覧者から低い評価をされていただけでなく、激しく罵倒する批判コメントまでもが付けられていました。

『ゆずゆずり』のレビュー(Amazonカスタマーレビュー)

このコメントが付けられたのは2009年の5月8日。
枡野さんのブログ記事のアップも同日。東さんのブログ記事のアップも同日。

罵倒コメントを付けた「上弦の月」という方がAmazonに書きこんだのはそれが最初で、以降は、一ヶ月後に東さんの既刊に★5つのベタ褒めレビューを書いただけ。
そして東さんの記事には、不本意なレビューを書かれた辛い気持ちを友人や編集者に相談した、とある。

なんとなく、上弦の月という方は、東さんの知人・身内であるような気がしました。


『ゆずゆずり』に付けられたレビューは、確かにとても酷いものです。
ただ面白くないと言うならまだしも、他作家と比較され、それより劣ると駄目出しされては立つ瀬がない。傷ついた東さんに大いに共感できますし、同情もします。
しかしこの記事を読んだ時、悪印象を抱いたのは、むしろ枡野さんに対してでした。

掲げられた持論や表現の幾つかに賛同できなかったからでもありますが、最大の理由は、レビュアーさんに対し《人格中傷》を行っていたからです。

司書の仕事を十年しているそうだ。

だからなのだろうか、
「自腹を切って本を読んでいる」
という感じがしないレビューばかりなのは。

司書といっても色々だろうけど、
この人が税金によって運営されている
公立図書館の司書だったらやだな……。
どこの図書館か教えてほしい。
そこ、行かないように気をつけるから。


作家志望かなにかなんだろうか。
作家にコンプレックスがあるとしか思えないほど、
圧倒的に上から目線だ。


私も今回あえて多用してみたんだけど、
「不快」って言葉を多用するんだよね、この人……。

他人を批判するとき、無意識に多用しがちなキーワードって、
自分が他人から言われて傷ついたことのある言葉だったりします。
この人が言われてきた言葉なのかな……。



想像を書いただけだと仰るかもしれませんが、悪意ある印象操作だと思いました。
枡野さんによって彼女は「挫折した作家志望者で、そのコンプレックスから意図的に大上段の酷評を繰り返し、実生活では周囲から不快だと言われていて、レビューする本は自腹で買わない」人に仕立て上げられています。

レビューの《内容》を批評し返すのはいい。
しかし筆者の《人格》を、人物像の捏造までして叩くのはいかがなものでしょうか。


枡野さんも上弦の月さんも、件のレビュアーさんが「作家を貶めることを目的に、悪意をもってレビューを書いている」と決めつけています。
枡野さんの記事を読むと、あたかも彼女の人間性に深刻な問題があって、そんな記事ばかり書いているかに思えてきます。

そして東さんの記事に「私はこの人に常に追いかけられているような気がして追いつめられていましたが、1000以上のレビューを書いていることを誇っているこの人に、嫌な気持ちにさせられている人はかなりの数にのぼるようです。」と、まるで誰もに嫌われた悪質なストーカーか何かのように書いてあるのを読んで、本当にそうなのか? という疑問が破裂しました。

大変大雑把にではありますが、レビューの全てに目を通してみました。結果、そんな悪意のある人物とは、自分としては思いませんでした。
女性で、独身で、結婚や育児に興味がある。パリが好き。それ以上に本が好き。
悪いと思える点も色々あります。レビュー好きが高じて義務か何かのように思い込み、話題の本だから無理して読んだと言ったうえ低評価したこと。低評価の際の容赦なく突き放すような駄目出し表現。選ぶ言葉のキツさ。人に読んでもらう文だという配慮が足りないのかもしれません。
しかしそれらは1200以上あるレビューの中では少数です。

★の数も数えてみましたが、突出して多いのは★5。次いで★4で、★3と★2は同じくらい、それらよりやや少ないのが★1。
数の上で見るに、大半を高評価でレビューしています。(そうしたレビューに感謝する閲覧者コメントも二つほどありました。)全体を見れば必ずしも商売の邪魔ではなく、貢献してもいるわけです。

* * * * * *

検索していくと、最近、ツイッターで枡野さんの記事と比較され話題になったブログ記事があるようでした。
千野帽子さんという男性の兼業書評家さんの公式ブログです。

13日の金曜日に仕事を請けると、碌なことがない。(0007 文藝檸檬/千野帽子公式ブログ)

仕事上のトラブルの告発ですが、彼の書評への考えが書かれた部分があり、それが枡野さん記事の「作家の害になる書評は書くな」という部分と比較されたようです。
曰く、誰が書いても褒めるだけの昨今の商業書評は購入ガイドとして信用ならない。自分は読んでつまらなければそれもちゃんと書きたいと。


作家・出版社側からすれば、商売を助けモチベーションをも上げてくれる褒め感想のみが欲しいでしょう。当たり前のことです。
しかし、提灯記事は書評の意義を失わせ、読者の利益を損なうという考え方がある。

* * * * * *

さて。
枡野さんの記事によれば、書評家の豊由美さんが光文社の無料配布誌『本が好き!』連載記事にて、件のAmazonレビュアーさんを取り上げて批判していたそうです。私は拝読したことが無いのですが、以下のブログ記事で触れられてあるもののことでしょうか。

おとなげないけど、いた仕方もないの巻(書評王の島/豊由美公式ブログ)

本が好き!(人生の半分は読書)
いいとこどりと書評ブログ(colorful)

プロ作家である枡野さんや東さんが一読者を名指し批判して、個人サイトへのリンクまで張り、まるで皆の嫌われ者であるかのように表現したのは、きっとその活字記事が……心理的な後ろ盾があったからこそなんでしょうね。


豊さんご自身が歯に衣着せぬ書評で知られているそうですが、Amazonレビュアーや書評ブロガーの成す批判は許せないと憤る。
彼らが匿名であり、リスクを負わない安全地帯にいて卑怯だからとのことです。
署名記事を書く自分たちは、内容が拙[まず]ければ自身の立場や仕事を損失する。だから批評する権利がある。対して匿名者にはないと。


Webの匿名性を憂う意見は多く見かけます。
「名のある」方々は特に、藪から集中砲火を浴びるようなものですから、憤るのはもっともです。

匿名になると気が大きくなり暴言を吐く心理については、精神科医の斎藤環さんが以下のように分析していました。
時代の風:公共性と匿名性=精神科医・斎藤環(毎日jp/毎日新聞web)

 匿名性は自らの存在を、他者に対してのみならず、自分自身に対しても隠蔽(いんぺい)してしまう。それゆえ第3の視点に立って自己を客観視することが、きわめて困難になってしまうのだ。

 自らを客観視する視点を失うと、世界に自分と相手の2者関係しか存在していないかのような錯覚がもたらされる。そしてほとんどの3者関係は、その起源である母親と子供の2者関係に限りなく近づいていく。

 つまり、匿名性の下で退行した個人の心理状態は、依存と攻撃との間を揺れ動く幼児の心に、きわめて近いものになっていくのだ。


正鵠を得ている気がします。

ただし、斎藤さんは次のようにも書いています。

 匿名性そのものが問題というわけではない。匿名や変名によって発揮される創造性というものは間違いなく存在するし、その意味では匿名掲示板にも多くの有益な情報が含まれている。



Webの特長の一つに、肩書にとらわれぬ交流、というものがあると思います。
匿名で顔も生活も見えないからこそ、年齢性別学歴職業などを飛び越えて、しがらみを取り払い、純粋に意見だけを送り合える。

しかし人間は、肩書きで値踏みしたがる生き物でもあります。
「批判するなら実名を明かすべき」と言う時、正論の奥底には、それを踏まえた恫喝が潜んではいないでしょうか。

学者・作家・評論家である小谷野敦さんのウィキペディアの記載を目にして以来、その恐れは強くなりました。
小谷野敦(Wikipedia)

絶望書店店主こと管賀江留郎 - 小谷野の著書『江戸幻想批判』における「吉原の遊女の平均寿命は23歳」という主張につきウェブサイトの日記で論破したところ、小谷野から匿名批評は卑怯であるから実名を名乗るかさもなくば日記の当該エントリを削除せよとの要求を受けて揉めたことがある。この要求を管賀が拒否したため、2006年3月30日、小谷野は絶望書店を「違法無届営業」と非難し、「杉並警察に通報しようかな」と書いたこともある(その後、絶望書店は古書を売るのみの営業であり届出の必要な古物商の定義には該当しないことが判明)。やがて小谷野は管賀の本名を何らかの手段により突き止めて無断公表し、管賀の指摘を「重箱の隅突つきでしかない」と断定した上で「本質に関わりない点で私が誤っただけだ」と発言している。


小谷野と絶望書店店主との論争に関して、或る匿名のはてなブロガーからインターネット上で「キチガイ」「大学の恥」「馬鹿学者」「狂犬」などと侮辱され、当該箇所をプリントアウトして警視庁高井戸警察署に相談したが埒が明かなかったため、株式会社はてなや当該ブロガーに対する問題の記述の削除要請を経て、2008年2月5日、はてなを相手取って東京簡裁に情報開示および損害賠償請求の訴を起こし、裁判所の和解勧告に従って同年7月3日にはてなと和解すると共に情報開示を受けた。これによって当該ブロガーの個人情報を突き止めたものの、小谷野は「高卒じゃしょうがないね。高卒の者の言論相手に裁判起こしたりしないから安心しな。実はぱっと見て怒り狂ったんだけど、本当に高卒だと知って怒りは収まった」「最近はおとなしくしているので、すぐ提訴する気はない」と言っている。



思えば枡野さんも、Amazonレビュアーさんが個人サイトで明かしていた職業をタネに《人格中傷》を行っていたではありませんか。


評者が何者か判らなければ批評の偏りがはかれないから、匿名批評は駄目だ。
そうでしょうか。個人識別できるハンドルがあり、ある程度人となりの探れる拠点(ブログやサイトなど)があれば、それはクリアできるのではないでしょうか。
それに正直、プロの書評家の人となりも純読者には大して判りません。書評は筆者を値踏みしなければ価値のないものなのでしょうか?

評者がなんら報いを受けずズルいから、匿名批評は駄目だ。
そうでしょうか。2ちゃんねる等の本当の匿名掲示板だろうと、犯罪レベルの書き込みをすればトレースされ逮捕されます。ましてハンドルのあるブログやAmazonレビューの場合は言論攻撃も受ける。現に、一人のレビュアーがWebはおろか商業活字にまでされて糾弾されているのでは。
そもそも趣味レビュアーは書評で金銭やWeb外評価を得ているわけではありませんので、それらが損なわれないのはズルいと言うならば、見るべき土俵を間違えた考えに思えます。

* * * * * *

昔、BSアニメ夜話か何かで、アニメ映画の監督と「名のある」アニメ評論家がゲストに呼ばれていた時のこと。
評論家があるキャラクター絡みの解釈を熱く語った後、監督が「そのような意図はありません」とサラリと答えて、観ていたこちらの肝が冷えたことがありました。

世の中には巧拙様々な批評があります。
読解力や文章力の高い「ブランドある」方の目から見れば、Webに溢れる馬の骨の批評など、我慢ならないほど稚拙なものが大半でしょう。
しかし、《人格中傷》や極度の読み込み不足は論外として、面白かった・面白くなかったという主観は、誰にも非難されることではないと思います。

本の面白さを決めるのは出版社や書評家作家の特権ではない。
高能力者が常に正しい解釈をするわけでもない。


そして、特に素人が趣味で書く感想・書評・批評は、必ずしも本の売り上げアップを目的とはしていません。
主観ですが、作家に届ける・役立てることばかりが目的ではないと思うのです。

作家の視線を意識し尊厳を守るのはマナーですが、作家と目を合わせることばかり気にすると書けなくなる文章もある。作家が作品とは切り離された彼方の虚像であってくれないと困る時もある。
作家に直接送りつけたものでない限り、作家宛てのファンレターではない。ファンレター以外は世に出すなと作家が強制することはできない。
まして書店サイトのカスタマーレビューは購入者のためのシステムであって、作家のファンページではありません。

商業書評にしても、作家への気遣いに腐心し過ぎると、提灯記事か馴れ合い批判の羅列になりかねないのでは。




結局のところ、重要なのはバランスではないかと思いました。
無為に作家を傷つけ作品を貶めてはいけない。けれど作家の利ばかりを優先しおもねっては道に迷う。

同様に作家側も、読者評が意に沿わないからと言って、封殺を望むのはよくないのではないでしょうか。
まして、酷評されたのは読者に悪意があるからだ、低能力だからだ、合わない本を選んだ自己責任だ(面白くないなら読むな)とまで言ってしまうのは、気持ちとしては理解できますが、文章を金銭に換えている人間としては、適切な反論の度を超えているのでは。

……と、一連の記事を読んで思ったのでした。



* * * * * *

ネット実名は強者の論理。まじめに論じる匿名のメリット(My Life After MIT Sloan)
 ↑この記事は非常に面白かったです。

酷評される勝間和代の本! 編集者「アマゾンがレビューを削除してくれない」(ガジェット通信)
 ↑出版社が、自社本に付いた低評価カスタマーレビューの削除を要請していたという暴露?話。

絲山秋子・豊崎由美に答える(猫を償うに猫をもってせよ/小谷野敦 公式ブログ)


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【2010/11/27 19:58】 | すわさき・その他
【タグ】 屁理屈こねこね  
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よその掲示板に描かれた文章を見ていると、「長文」だと、嘲笑・否定のニュアンスで一言レスされていることがあります。
ところが長文だと言われたその文章、せいぜい200~300文字程度なのですよ。

携帯電話から見ているのかな、携帯の小さい画面ならその程度の文字数でも長く感じるのかもねと思いきや、パソコンから見ているらしく。
そうすると、スクロールせずに読めてしまう文章でしかありません。
ええええ。流石にそれで長文だと思うなんておかしくないか(汗)。

近年、日本人は長い文章が読めなくなり、短文を好む傾向が表れているとはよく言われています。
新聞も昔に比べ活字も大きくなり、一つの記事の文字数もぐっと少なくされているのだそうです。

確かに、長すぎる文章は読みにくいですよね。
簡潔に書くことは、文章書きの目指すべき到達点の一つだというのも事実だと思います。

それにしたって、原稿用紙一枚だって400字です。
伝えたいことが無いなら長いですが、何かを伝えるには多くはない。

ダラダラ長文を書くより、簡潔に短文で書ける人間の方が優れている、という考え方があります。
確かにそれも一面の真理です。
でも、何でも短くまとめればいいかと言うと、そうとも限らない気がします。
例えばこの記事も、一行にまとめてしまうことは可能です。

「短文信仰ウザい」

しかしこの一行では、多分色々ねじ曲がって伝わってしまうように思うわけです。


いや、うん。
長文がいいか短文がいいかと言う話じゃないんですよ。
長かろうと短かろうと、言いたいことが出来る限り正確に伝わるって事が一番大事ですから。

長くても話がまとまっていなければ駄目。
短くても説明が足りなければ駄目。

言いたいのは、200~300くらいの文字数で、どうして疑いもなく長文だと言い切り、そのうえで(意味が解る解らない以前に、ただ文字数が多いと)揶揄までできるのかということ。普段何を読んでるのかなと、純粋に不思議に思ったのでした。

一体、何文字からが長文なのでしょう。と言いますか、どうして「長文だから」と鼻であしらわれたり、「長文ですスミマセン」と申し訳なさげにしなければならないのでしょうか?
これはいつから現れたネットマナーなのでしょうか。
検索してみたところ、質問サイト系に「何文字からが長文か?」という質問が幾つか出ていて、似たような疑問や不安を感じた人は結構いるのかなと思いました。


長いから読みたくない。
それも個人の感じ方であり自由なんですが、本当に読む能力が無いというより、自分にとって好ましくない意見だった時の手軽な反撃パターンとして「長文」と言っている気もしました。
有効な攻撃法と見るべきか、思考停止の一種と見るべきか。

それにしたって200文字程度ならば、何か別の反論の仕方を選んだほうがいいように思います。文章が読めないことをアピールすることにもなるので、逆に自分のイメージを落とす危険もあるのではないでしょうか。


ネットから長文が消えたいくつかの理由(ITmedia)
「長文です」という、断り書きの使い方(教えて! goo)

短文馬鹿の台頭と、長文天才の復権(増田まとめ)


日本人は短文好き(普通の国にしたいだけなのだ)

【2010/11/19 01:12】 | すわさき・その他
【タグ】 屁理屈こねこね  
トラックバック(0) |
バクマン。(1) (ジャンプコミックス)
バクマン。(1) (ジャンプコミックス)小畑 健
集英社 2009-01-05
おすすめ平均
starsこれだけ熱中した漫画は久しぶり
stars作者の持論もまた「らしさ」??
stars今さら作者の作風に文句を付けても・・・
stars漫画としては面白い…?
stars裏側なんて知らなくてもいい

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


漫画家としての成功を博打に見立て、博打漫画道に人生を賭けた、才気あふれる少年二人組の物語。
この漫画がスゴイ!2010オトコ編 第一位。今秋からはNHK教育でアニメも始まる大人気作です。

私は基本的に『週刊少年ジャンプ』を読んでいないのですが、この漫画は単行本化以前にWEBで無料公開されていた時期があって、それをきっかけに存在を知り、今でも単行本を買っています。

この漫画以前に私がチェックしていたジャンプ漫画は『ヒカルの碁』でした。
この漫画は作画担当者がそれと同じで、物語的にも、特殊な業界の内部を比較的リアルに見せてくれるという点が共通している。また漫画を読む人間としては当然、漫画業界に興味や親しみがあります。

そんな感じでこの漫画は好きで、面白いと思っています。
で。
あくまでそれ前提で、この漫画に感じることのある、モヤっとする部分について、今回は書いてみようと思います。
まだ単行本化される以前、一度、当時あった別館の日記でも触れたことあるんですけど。

では単刀直入に。
この漫画を読んでいると、原作者の愚痴と自慢と偏見を延々と聞かされているような気分になることがありませんか?

物語の登場人物は、多かれ少なかれ作者の分身であり、それは自然なことです。
また、物語そのものが作者の持論の主張であることも、当たり前のことではあります。

けれどこの漫画、どうにも強烈に感じられる。
「俺はこう思うんだよ!」「あいつらはバカだ!」「俺はその時こうしたね。他の奴らとは違うんだよ」「そういう態度の女は嫌われるよ」
酒の席で、酔っぱらった中高年男性に、くだをまかれてるような気分になる場面がぽつぽつとあります。

そのように作者が見せているだけだとか、精神未熟な中学生をリアルに描いているからだという擁護意見をあちこちで見ますけれども、私には、作者の考えが素で出ているだけに感じられたのでした。実際はどうだかわかりません。あくまで個人的な感想です。


メイン主人公の真城盛高ことサイコーは、二年前に亡くなった叔父、漫画家・川口たろうのコピーです。彼が語る漫画論は、殆どが叔父の受け売り。サイコーにとって叔父は神で、微塵もその持論を疑うことはありません。
そして川口たろうのモデルが、原作者・大場つぐみ(ガモウひろし)であることは、作中の描写から明らかであるように思います。

物語序盤は、サイコーの口を借りて、川口たろうこと大場つぐみが自身の漫画論を自信たっぷりに語り続けます。自分がいかに論理思考に優れ賢かったか、いかに努力家で不屈の闘志を持っていたか。そして絵が下手だったことへの強烈なコンプレックスに基づく自虐。それを裏返したかのような、サイコーの天才的な画力への称賛。

ジャンプから戦力外通告されて、漫画家・ガモウひろしは死に、新人原作者・大場つぐみとして生まれ変わった。
同じように、川口たろうが死んでサイコーに生まれ変わった、とみなすことが出来ます。
川口たろうは絵が下手で恋愛にも失敗して挫折のまま人生を終えた。けれどサイコーは天才的な画力を持ち、恋愛でも成功して、今のところ本当の挫折を味わっていません。
サイコーはジャンプの主人公らしい天才型キャラクターですが、少年たちのあこがれと言うだけでなく、中年男性の夢の具現化という面も強いように思えます。


サイコーとその相棒のシュージンは、登場時は中学生でしたが、魂は既に中高年でした。
50代前後の男性が読んでいたような前時代の漫画(と言いますか、梶原一騎作品)にやたらと詳しく、そこで語られた価値観を座右の銘として絶賛。
その価値観と相いれない、比較的新しい世代に生じたサブカルチャーに対しては、侮蔑的とさえ言える否定の目を向けます。

秋人「サイコー どんなマンガ描きたい?」
最高「そんな事 急に聞かれても」「ただ俺は男っぽいマンガが好き」「オタク系とかなよなよしたのは嫌だ」
秋人「ああ 俺だってそーいうのやりたくない セックス レイプ 妊娠 中絶 あれは最低だよな」
最高「それは少女マンガとか くだらない恋愛小説だろ…」


「男っぽい漫画が描きたい」とだけ言えば事足りることなのに、何故か嫌いなものを列挙。まして「少女マンガとか くだらない恋愛小説」は少年漫画とは別次元のものなのに、わざわざ挙げて「最低」だと批判せずにはいられないらしいのです。

「セックス レイプ 妊娠 中絶 あれは最低だよな」と、近年の少女向け創作の卑俗な要素を否定するのは、正当な意見でもあります。少女たちに見せるものである以上、健全で良質であるべきだ、と思うならば。

しかし反面、少年漫画の卑俗さは大擁護します。

話が進むと、少女漫画誌から少年漫画に移って来た蒼樹という女性漫画家が登場。当初の彼女は、少年漫画のなんたるかを理解できていない、高慢なインテリ女として描かれています。
彼女いわく、金銭にこだわって夢がなかったり、ドラッグや暴力が出てくるものは少年に読ませる漫画として良いと思わない、と。
これは「セックス レイプ 妊娠 中絶 あれは最低」という発言と、意味的には同種です。

しかし彼女のこれらの発言は顰蹙モノとして描写され(シュージンは彼女に激しい敵愾心を抱く)、ついには福田という若手漫画家の男性が「少年マンガってもっと不健全な作品があっていいんだよ 聖書や教科書じゃないんだ」と凄んでキツく反論。
更に話が進むと、自分は至らなかったと悔い改めた蒼樹嬢が(彼女は一方的にシュージンに恋するが報われない)、福田に教えを請うて、少年漫画における女の子のパンツの見せ方を学び、『コーチ、ありがとう! 私出来ました!』状態にまでデレるのでありました。

少年漫画における過激でアングラな描写は肯定されるべきもので、少女漫画のそれは「最低」。
どっちもどっちで、読者のニーズに合わせて商業として行っているという点では同等なんじゃないかなぁと、読者目線では思うんですけどね。


オタク系の否定もしていましたが、こちらは、石沢と言う萌え絵が得意な同級生を登場させ、その絵を「キモイ」と一刀両断、容姿・人格的にも劣悪な人間として描いています。

《キモい萌え絵》しか描けず、自分で漫画を描きあげたことすらロクにないくせに、偉そうに他人の批評をする鼻もちならないオタク。私自身もこんなようなものですけど、今はネット上にうようよと見出せる人種な訳で。恐らく、石沢はそのイメージで作られているキャラクターです。
大場つぐみ氏はネットの批判意見に関しても作中で触れていますし、これらのオタク系評論家たちが《殴りたいほど》嫌いなのかもしれません。

シュージンにぶん殴られて物語から退場していた石沢ですが、ずっと先になってまさかの再登場をします。
なんと、彼もまた高校生の時に月刊4コマ誌でデビューして、連載を持つプロ漫画家になっていたのです。
それを知った主人公たちは「あいつも頑張ってたんだ」と素直に言う。お、石沢(オタク系)を持ちあげて、以前落とし過ぎたフォローをするのかな、と思いきや。
主人公二人で石沢の連載誌を「知らない」と言い合ってマイナー誌であると重ねて主張。
更には石沢が周囲に「ジャンプ連載作家の《主人公たち》と交友がある」と言いふらしている描写を挿入。
結局、彼はどこまでも底辺の人間で、同じ漫画家であっても天下のジャンプに連載している主人公たちの足元にも及ばない、という語り口なのでありました。


真偽の怪しいWEB上の情報ですが、大場つぐみ氏が『バクマン。』の連載準備をしていた頃、アニメ化されヒットした『ドージンワーク』(ヒロユキ/芳文社)の存在を息子さんに教えられて、どういう意味でかは分かりませんが、一時期、やる気をなくしていたとか。

『ドージンワーク』は、ジャンプに比べればマイナーな月刊4コマ誌に連載されていた掌編漫画で、同人漫画で名誉を得たりお金を稼ごうとするオタクの少年少女たちのコミカル青春劇です。
真剣にプロを目指すことなく漫画を描く、言ってしまえばチャランポランな姿勢は、『バクマン。』とは対極にあるものと言えます。
けれどこの漫画はアニメ化され、商業的に成功しました。同人文化に親しんだ若者層に肯定・支持されたからです。

『バクマン。』には若手漫画家仲間が大勢登場しますが、ジャンプ作家内で同人に関わる者は現時点で皆無です。唯一のオタク系と思しき石沢は、あらゆる点で下種[げす]に描写。また、真剣にプロを目指さずにアシスタントをしている人々も、かなり否定的に描いています。

石沢が連載している4コマ誌は『キャラキラコミック』という架空の雑誌。そして『ドージンワーク』が連載されていた雑誌は、芳文社の『まんがタイムきららキャラット』でした。

どこか暗示的なものを感じてしまいますが、ただの偶然かもしれません。



物語冒頭、サイコーとシュージンは、クラスの連中はみんな馬鹿、俺とお前だけは物事の道理が解っていて賢いと、互いを褒め称え合います。シュージンは更に、サイコーが秘かに想いを寄せる女生徒・亜豆美保をも賢いと褒めました。《女は男より馬鹿であるべき、という道理をよく理解していて、男に好かれるよう振舞っているから賢い》のだと。

秋人「おしとやかに行儀よくしてるのが女の子らしい それが一番ってのが自然に身についてて」「女の子だから真面目な方がいけど勉強は中ぐらいでいい 出来過ぎても可愛くないって感覚 生まれつき持ってるんだ」「それって賢いって事だろ」
(中略)
秋人「「女の子だから」がわかってるんだ 可愛いお嫁さんになるのが女の一番の幸せって生まれながらに思っている
それまでは いや 結婚しても 女らしく おしとやかに可愛く」「それが計算じゃないんだから クラス一勉強できる女 岩瀬より100倍頭いい」「サイコーだって どんな可愛くても馬鹿は嫌だろ」「反対に岩瀬だって見た目も悪くないけど好きになれなくね?」
最高「確かに 女で一番成績がいい それが誇らしげな性格が嫌だ 馬鹿だとさえ思う」


この思想は、決して間違いではありません。社会、特に中高年の男性の間では正論として通っています。なんだかんだで社会は封建的で、女は男の従属物であるべきという思想は根強いのです。
また、少年漫画ですから、男にとって都合のよい女性像が理想とされるのは当然です。

物語世界に没入して考えるならば、きっと、シュージンの父親がそういう考え方の人間なんでしょう。彼の母は教師で、夫が失職したあと家計を支えたということですから、頭はいいが可愛くなくて馬鹿な女とは、彼の母親のことなのかもしれません。


それにしても、亜豆を褒める場面で、どうして無関係の岩瀬を貶めているのでしょうか。
自身の長所を鼻にかけて威張るような人間は、確かに虫が好かないものです。女だろうと男だろうと
けれど、ここで岩瀬がこきおろされているのは「女だから」です。「女のくせに」「成績がいい」ことを鼻にかけているから「馬鹿」だと言うのです。
昭和初期ごろまで「女は勉強なんてしなくていい、変に知恵がついたら碌なものにならん」と言われていたようですが、平成の世に生きる中学生・シュージンとサイコーは、日本の伝統を愛し、伝承しています。

女は男の従属物なのだから、男より《デキる》存在であってはならぬという理想は、亜豆というキャラクターに詰め込まれています。
彼女は声優を目指していて、サイコーが漫画家になる決意をする以前から地道に活動していたと、台詞では語られます。けれどそれは見せかけの設定。「女の子だから」彼女の夢は結婚するまでの腰かけで、少しも真剣味のない他愛のないものだ、だからこそ賢い・魅力的だと、最初に断定されています。

秋人「声優目指してるのだって 今の女の子にありがちな夢を自然にチョイスして その夢見る乙女を最大限に楽しんでるくらいにしか思えない」「俺達みたいに 将来とか 切羽詰まったものは何も感じてないよ」
最高「女の子だから?」
秋人「そう「女の子だから」がわかってるんだ 可愛いお嫁さんになるのが女の一番の幸せって生まれながらに思っている」


だからなのでしょうか。物語が少し進むと亜豆の方が先に声優デビューして、一見サイコーたちより先に進んでいるように見えますが、よくよく見ると、サイコーたちが常に周囲から実力を高評価されるのに対し、亜豆は演技を褒められることもなく、歌も下手、可愛い容姿で役をもらっている、としか描かれることがないのでした。


『バクマン。』は面白いのに、時々、どうにももやっとさせられる。
対照物を貶すことで持論を上げる手法が多く使われているからかと思います。

漫画を描くペン先にすら、この論調です。

最高「やっぱGペンって難[むず]いよ…」「頭の中でイメージしてる太さに描けない」「難いから一度カブラペンも使ってみた」「おじさんもGペン知らずにこれで描いてて 編集者にGペン使えって言われてから挑戦したけど もう変な癖がついてて使いこなせなくて ずっとこれ使ってた」「線の強弱は出にくいけど 逆に一定の太さの線は描きやすい」
秋人「おじさんが このペン先でプロとしてやってたからって それじゃダメなんだよな?」
最高「ダメに決まってんだろ 絵に味も雰囲気もでない」「おじさんは「絵が下手」って開き直ってて ギャグだから ギリありだったんだって」
秋人「だよな……」


「俺はGペンの線が一番好き。だから使いこなしたい」と言うだけで済むことなのに、カブラペンと、結果的にその使用者をも激しく否定せずにはいられない。
Gペンを使いこなせなかった川口たろうことガモウひろしのコンプレックスの裏返しらしく読めますが、現実にはカブラペンを使う《絵の上手い》プロ漫画家がごまんといることを無視した、いささか視野の狭い発言です。

この回が載った後のジャンプの作者コメントで、『ハンター×ハンター』などで知られる冨樫義博が

「川口先生、ぼくも人物はカブラです。聞いたら他にもいました。がんばります。」


とチクリと発言し、注目されたものでした。

漫画の神様と呼ばれた手塚治虫はカブラペンの愛好者で、その薫陶を受けた藤子・F・不二雄らも倣っており、《入り・抜き》の小さいスッキリとした線で児童漫画を描いて人気を博していました。それに反し、後に確立した劇画(大人向け漫画)の漫画家たちが、筆のような強烈なタッチの出るGペンを好んで使うようになり、そこからGぺンブームが起こったのだと、一般には言われています。
しかし劇画系の漫画家にカブラペンの愛好者がいないわけではなく、時代漫画で知られる平田弘史はカブラペンだけで全ての絵を描くそうです。
劇画ではありませんが、『エマ』『乙嫁語り』の森薫もメインはカブラペンだとか。

Gペンでなければ「ダメに決まってる」「ギャグだから ギリあり」なんてことはない。
ペン先は作画道具の一つに過ぎず、自分に合うものを選べばいいだけのことで、ガラスペンでも竹ペンでもスクールペンでもミリペンでもロットリングでも、印刷にきちんと出るものなら何を選んでも「ダメ」ではないはずです。
なのに、この頭ごなしの断定口調。未来の漫画家を目指す純朴な小中学生は、「カブラペンで漫画を描いちゃ駄目なんだ」と思いこんでしまったかもしれませんね。

漫画を描く道具と言えば、『バクマン。』には若手漫画家が大勢出てくると言うのに、現在のところ、デジタルで漫画を描いている者が、ただの一人も出ていません。少し不思議な感じです。川口たろう先生がデジタルを使っていなかったからなのでしょうか?



『バクマン。』冒頭で、サイコーとシュージンの対話という形で語られている賢愚論・仕事論・女性論・遺伝論は、原作者が自身の思想をそのまま表したもののように思えます。

学校の勉強が出来る者は必ずしも賢くなく、真に賢いのは要領よく立ち回れる者である。
男の仕事は女・名声・金を得るためのもの。
女は男より下位に振舞うのが賢い生き方。
賢さは遺伝により生まれつき決まっており、賢い者が社会で成功する。

それぞれ、一面の真実であって、間違ったものではありません。
ただ、これを真理としてしまうと、様々に角が立つことになると思います。
特に下の二つ、「性別や血筋によって、人間は生まれながらに上下が決まっている」という論は、近年の青少年向け商業創作では忌避されがちなもののように思います。NHKでのアニメ化の際にはカットか大幅改変されるのではないでしょうか?

勝手な想像ですが、原作者は「半端な綺麗事なんか無意味だ、世の中は本当はこうなんだぞ」と、近年の少年誌の表現の禁忌を破って真理を主張したつもりで、このような場面を作ったのではないかと思っています。後に作中で、福田というキャラクターの口を使ってこう語っていることですし。

「どんどん規制厳しくなってるよな」「まあ それを言っても 昔のマンガを引き合いに出すなって言われるだけだが…」「少年マンガってもっと不健全な作品がいっぱいあっていいんだよ 聖書や教科書じゃないんだ


というわけで、私はこの漫画を読むと、酒の席で中高年男性に自慢と愚痴混じりの人生論を説教されている気分になることがあるのでした。


人間が生まれながらに不平等なのは真実です。
しかし、だからといって綺麗事を否定してしまうのも悲しいことだろうと思います。
例えば義務教育の現場では、そう主張することは好まれないようです。
理想論であろうとも、人間が平等であることを信じ、勉強をすれば同じ高みに行けることを前提に差別なく与える、それが教育の理念だからです。



シュージン&サイコーは人間の賢さは血筋や家格で生まれながらに決まっていると語り、福沢諭吉の著書『学問のすゝめ』の初編の一節を例に挙げて、その内容は間違っていると揶揄しました。

秋人「俺 一万円札好きだけど福沢諭吉嫌いでさ」「”天は人の上に人をつくらず人の下に人をつくらず”なんて 本に書いちゃって「だったらいいのにね」って ちゃんとつけろって思う」
最高「はは わかるよ 人間つくってるの天じゃなく親だし 生まれた瞬間から親だけで どんだけ差が生じてるんだって」


各所で指摘されていることですが、これは少しズレた理解であるように思えます。シュージンは福沢諭吉が「人間は全く平等だ」と浮世離れした理想論を説いたと思っているようですが、実際はそうではないからです。以下に引用します。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資[と]り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人[げにん]もありて、その有様 雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教[じつごきょう]』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役[りきえき]はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。
 身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々[しもじも]の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本[もと]を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺[ことわざ]にいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人[げにん]となるなり。



要約・意訳しますと、以下のような感じです。

「(アメリカ合衆国独立宣言によれば、)人間は生まれながらに平等だと言います。けれど実際に世の中を見渡せば、賢い人・愚かな人、豊かな人・貧しい人、身分の高い人・身分の低い人がいて、雲泥の格差がある。どうしてでしょうか?
理由は明らかです。『実語教』(鎌倉時代頃~明治時代まで使われていた初等教科書)にも、「人は勉強しないと知識を得られない、知識のない者は愚かである」と書いてあります。賢い人と愚かな人の差は勉強するかしないかで現れるのです。賢い人は知識を必要とする難しい仕事に就くことが出来、お金持ちになって、世間的に重く見られるようになり、身分の高い人になれます。
けれど、元をたどれば勉強したかしなかったかにすぎません。生まれながらに差があったのではないのです。ことわざにも言います。『天は富貴を、人に与えるのではない。その人の努力に与えるのだ』と。
そう考えれば、最初に言ったように、人は生まれた時は平等だと言えます。ただ、勉強をして知識を得ている人は成功し、勉強しなかった人は底辺に落ちるというだけなのです。」

シュージンは学年トップの成績を誇る天才と言う設定でしたが、読んだことのない本の内容を得意げに批判したように見えます。
中学生らしいと言えばそうですが、その後、作中で全くフォローがなかったので、気になったところではありました。




などなど、この漫画を読んできて自分の中に積もっていた もやもやを整理して晴らすために、長々と書いてみました。
あくまで勝手な雑考ですので、的外れなことばっかり言ってると思います。低レベルな人間ですので、一生懸命考えても馬鹿なことしか考えられない。

個人的に、今の注目は見吉がちゃんと幸せになれるか、です。
『バクマン。』のキャラの中では彼女が一番好きかも。

【2010/02/09 22:41】 | すわさき・感想
【タグ】 漫画の感想  屁理屈こねこね  
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若干論点違いですが
オイトゥ
長台詞に耐えられなくて途中で見るのをやめたマンガなのですが、興味の惹かれるレビューだったので、恐れながら自分もボヤかせていただきます(笑)。


>作者の考えが素で出ているだけ
勧善懲悪の話ならともかく、異なった価値観の対立に善も悪もないはずだから、作者には常に第三者の立場であって欲しいですね。
キャラ同士が論争を繰り広げる話はよく見かけるけど、最近の作品には自分が正しいと主張するよりも、相手が間違いだと非難する演出がどうも多い気がする。
作者が一方の言い分に肩入れするよりも、人の数だけ答えがある方が面白いはずなんですけどね(その点、世直しマンや八神月は自分なりの正義を主張していたと思うんですが・・・)。

>近年の少女向け創作
少女漫画の何が気に入らないかっていうと、ジューシンの指摘していた点じゃなくて(少女漫画の事はよく知らないですが、現実にそういう表現があるんだとしたら、個人的にむしろそれは大歓迎かも。いやらしい意味ではなく)、相手の男に隙がなさすぎるのが一番気に入らない。カッコいいというより、あらゆる点でキレイすぎるような・・・。
コップを持つ時に小指を立てるのが気に入らないとか、女のそういう要望にも全てあっさりクリアしてしまう感じ。現実にいたら、明らかに下心のあるスカした男としか思えない。余談ですがシリアス志向のシェゾにも若干こういう印象がぬぐえません(半分嫉妬心のこもった意見ですが)。
反対に男性視点の恋愛モノだと、ヒロインが才色兼備過ぎるパターンが多いので、どっちもどっちかも知れませんが。

>オタク系の否定
石沢のアレ(もうこの辺から読んでないですが)はどちらかというと『秋葉系』であって、あくまでも『オタク』と『秋葉系』は別の人種なのかなと最近では思います。
せんせいのお時間という学園マンガ(これもある意味、男でも楽しめる少女漫画かも)で、同じく萌え同人誌を描いているオタクキャラがいるのですが、彼は自分の描くマンガに独自の信念を持っていて、読者としてはある意味尊敬できる人格です。

>女性論
自分はまだ20代ですが、あからさまにこれの典型かも知れません(笑)。特に、政治や戦争の問題に首を突っ込んでくるのはずうずうしい。男だと許せるのに女だとなぜかこれが許せない。時代遅れな考え方です・・・。
これは自分に差別意識があるせいかも知れませんが、男女が本当の意味で対等になるのは無理のような気がします。少なくとも日本人はそういう民族じゃない。2chで「なんで男は働く女が嫌いなの?」というスレを見かけたんですが、逆に「なんでそこまで働きたがるの?」と聞きたくなってしまいます。それならむしろ、安易に玉の輿を狙っている女の方がよほど共感できます。
男と対等になりたければ、男と同じ土俵で張り合うのではなく、女にしかない長所を見つけた方が、女に生まれた事を誇れるはずなのにと。現代社会における女性の立場をよく知らないから、こんな懐古な主張ができるのですが。
日本のドラマで男勝りのキャリアウーマンの役をよく見かけますが、ああいうのが現代女性のあこがれだとしたら、時代の流れだと分かっていてもショックをぬぐえません。

こういう頑固な考え方しかできないから、魔導に触れた当初なんかは、ルルーが格闘技で魔物と戦うのをあまり快く思っていませんでした。むしろ、今でも若干抵抗がある事を否定できない。
腕力がどうこう以前に、女は暴力で他人を傷つける事をためらうはずだし、何よりも、自分の肌に消えない傷を作って平気でいられるはずがないと。(大抵の傷はヒーリングで治せるし、真魔導でもなければそういう命がけの戦いに発展する事は滅多にないですが。仮にそういう展開になったとしたら、シェゾかサタンに助けてもらう方向で(笑))
ジブリ作品に登場する敵勢力で女ボスをよく見かけますが、あれもやっぱり快く思えない。同じ女悪役なら、下手に信念や統率力があるよりも、嫉妬心や盲従で身勝手に振る舞う方が男としては安心できます。

誰と結ばれるかにもよるけど、ルルーも普段から腕っ節が強くてわがままで構わないから、好きな男にだけはきちんと尽くして欲しい。サタンを尻に敷く光景だけはどうしても想像したくない。口で女に勝てないのは分かっているけど、夫婦で言い争いになったら、例え夫の言い分が間違っていても最後は譲って欲しい。
子供の頃昆虫にいたずらするとよく「かわいそうだ」と言って注意されたが、女の考えはそういう平和主義でいいと思う。ルルーの格闘技に触れた意見も含めて男の身勝手な願望ではあるけど、女には男よりも達観して欲しくない。


>少年誌の表現の禁忌
「教育に悪い」という言葉を最近色んなところで耳にしますが、子供の教育に悪い作品を見て悪い影響を受けているのは、むしろ大人の方なんじゃないかと思います。ヒステリーを起こした一部の大人が教育をかさに、次々と無為に規制を作って表現の自由を狭めて・・・。
ゆとりなんて侮蔑用語があるけど、大人が思っているほど子供はバカじゃないと信じたいです。例えば赤ずきんちゃんを読んで、実際にオオカミの腹に石を詰めてみようと考える子供はいなかったはずですから。


本当は単行本を読破してから意見を書くべきだと思ったのですが、自分も理屈をこねるのが好きな性分なので、僭越ながら駄文を書かせていただきました。すわさんの見識と比べて、色々と食い違ったり論点のズレた意見があるかも知れません。
作品の純粋な感想を述べると、もうほとんど覚えていないですが、序盤で二人に色々アドバイスをしていた担当の人。あの人は結構好感が持てましたね。
あぁ、でもあの長ゼリフだけはどうにも・・・。誰でもいいから「10分で分かるバクマン」みたいなのを作ってくれないかな?(他力本願)

我ながら不毛
すわ@管理人
こんばんは。

>石沢のアレ(もうこの辺から読んでないですが)はどちらかというと『秋葉系』であって、あくまでも『オタク』と『秋葉系』は別の人種なのかなと最近では思います。

??
オイトゥさん的には
「悪いオタク=秋葉系、良いオタク=オタク」
ってことですか??
何かこだわりがおありなのですね。


>男女が本当の意味で対等になるのは無理のような気がします。少なくとも日本人はそういう民族じゃない。2chで「なんで男は働く女が嫌いなの?」というスレを見かけたんですが、逆に「なんでそこまで働きたがるの?」と聞きたくなってしまいます。

>日本のドラマで男勝りのキャリアウーマンの役をよく見かけますが、ああいうのが現代女性のあこがれだとしたら、時代の流れだと分かっていてもショックをぬぐえません。

>政治や戦争の問題に首を突っ込んでくるのはずうずうしい。男だと許せるのに女だとなぜかこれが許せない。


第二次世界大戦終結後まで、日本女性には参政権がありませんでした。(世界的にも似たような感じです。)
女性の就職口は少なく、なれない職業ばかりでした。
就職できても男性より給料が低いのが当たり前。女性は男性に養われるものだからお金いらないでしょ、という理屈です。
女性の昇進は認められず、そもそも最初から、上級職になるための権利を与えられない・慣習的に阻止されるものでした。

男女雇用機会均等法により改善されましたが、それはごくごく最近のことです。潜在的な差別も無くなっていません。


西欧から中東、インドなど、多くの地域において、長く、女性には人権がありませんでした。
男性の財産と言う扱いで売買されるもので、その意味では家畜と変わりません。
南インドでは、夫に先立たれた妻を焼き殺す風習があったそうです。妻は夫の従属物ですから、夫が死んだのに生きている価値はない、という考え方です。
生き延びることも許されなかったわけではないですが、その場合は、無染の粗末な服を着て閉じこもって、一生、世捨て人のように暮らさねばならなかったそうです。この風習は少なくともつい数十年前までありました。夫に先立たれた女性を、親族の男性たちが無理やり焼き殺したそうです。
インドでは、持参金の少ない妻を焼き殺す(もっと持参金の多い新しい花嫁を得るため)事件が現代でも頻発していたことはご存知の通りです。


現代社会では、仕事には生活の糧を得る以外にも、自己発現という側面があります。
男性は《可愛い妻を得て家長として堅固な家庭を作る》という「男の幸せ」の夢と、《社会的に認められる》という「人間の幸せ」の二つを得ることが許されています。
しかし女性が「人間の幸せ」を得ようとすると「ずうずうしい」「許せない」と感じる男性が世の大半を占めているわけです。

私は、《可愛いお嫁さんになって温かい家庭を作りたい》という「女の幸せ」は、少しも悪いことだと思いません。
その一つに集中した人生を送って成果を上げるのも、素晴らしいことだと思っています。
しかし、それ以外の幸せ、あるいは男性と同じように「家庭」と「社会」二つの幸せを得たいと思うことも、悪くないし素晴らしいことだと思います。
幸せはそれぞれであり、色んな形があっていいはず。
自分の幸せを夢見て目指すことは、人間として当たり前の権利ではないでしょうか。

けれども、そもそも女性には、その権利すら与えられていませんでした。

シュージンがに批判した「天は人の上に人をつくらず」という文言の原型、アメリカ独立宣言では、全ての人間は生まれながらに平等で、生命と自由と幸せの追求を保証されると宣べられています。
けれど、ここで言う「全ての人間」には、女性と有色人種は入っていません。
男にとって、女は人間ではなかったからです。

人種もですが、女として生まれるか男として生まれるかは自分では選べません。

なのに、女に生まれたらもう、人間として生きられなかった。
それが現実で、数十年くらいの戦いの結果、ここ数十年、ようやく息がつける感じになった。
しかしそれを「馬鹿」だと、『バクマン。』は決めつけました。

現実には、男性の前でわざと愚かに(弱く)振舞ってコントロールする女性は沢山います。処世術です。そういう人が「賢い」のは事実だと思います。
けれど、そうせずに自己発現を目指そうとする女性は「馬鹿」だと、わざわざ言う。言う必要ないのに。

人として当たり前に生きたいと願うことは、それほどに「ずうずうしい」「許せない」ことなのでしょうか。
哀しいですね。


>男と対等になりたければ、男と同じ土俵で張り合うのではなく、女にしかない長所を見つけた方が、女に生まれた事を誇れるはずなのにと。

全く仰る通りで大いに共感します。
女性ならではの繊細さや優しさを生かして立派な仕事をなしている女性も大勢おられます。

ですが、あなたが「ずうずうしい」「許せない」と仰る政治への参加や、TVドラマに出てくるキャリアウーマンの仕事は、男にしかできないことですか。




>序盤で二人に色々アドバイスをしていた担当の人。あの人は結構好感が持てましたね。

梶原一騎作品をバイブルとあがめる大場氏は、現在、物語に梶原式王道展開を導入しています。
かつての師が最大のライバルになる、と言う奴です。

東大生のインテリ美女で新人小説家で漫画を馬鹿にしていた岩瀬が、シュージンのハートをゲットするために漫画原作者に転向。担当・服部氏はそんな彼女を噛ませ犬にして、主人公たちを発奮させようとしています。

岩瀬の漫画が成功するにしても失敗するにしても、「インテリ女の鼻っ柱を折る快感(どんなに俺に恋しようと振ってやる、もしくは高学歴なんて役に立たない)」「小説より漫画の方が優れている証明(小説家・岩瀬より漫画家の俺達の方が人格的に上、もしくは人気・売り上げが上、もしくは岩瀬自身が漫画の素晴らしさに目覚める)」という結論になりそうですよね。

大場氏は、小説に対してもコンプレックスを持っているように見えます。
一般的には小説の方が漫画より文化的に高位だと認識されてますが、それが許せないんだなって印象を受けてしまう。

物語序盤から「小説より漫画の方が売れる、面白い」「(ケータイ)小説なんて簡単に書ける」と繰り返してます。
岩瀬の小説を「俺は頭が悪いから理解できない」と言ってマトモに読みもしないし。(漫画だと、嫌な奴の作品でも読んでるのに。)

岩瀬はすばる新人賞でデビューしてるのに、それが難しくて読めないってシュージン&サイコーはどんだけアホなんだよって話ですが(純文学系のすばる文学賞ならまだ分からなくもないですが、新人賞の方は大衆文学系です)、自分たちの漫画よりはるかに少なくしか売れていない小説なんてその程度だと言うことなのでしょうか。


萩原
こんにちは。すわさきさんの漫画のレビューは面白いので、いつも楽しく読ませていただいています。(未読の本も多いのですが、「読んでみたいなあ」と興味をひかれます)

バクマン。の批評のしかた、私もすごく引っかかります。
何かを評価するときに、片方を下げて片方の良さを伝えることはよくある手法ですが、バクマン。はそれを多用しすぎだと思います。漫画というメディアでわかりやすく伝えるには必要なのかもしれませんが、完全にやりすぎですよね。
上に書いてらっしゃった福沢諭吉の誤読(というか間違った知識)もそうですが、そういう細かい違和感のせいで、正直に「サイコーとシュージン超頭良い!」とは思えなくなってしまっています。
連載当初はそのある意味中二病的な描写を狙ってやっていて、DEATH NOTEのラストのようにボロクソに批判されるターンが来るのかな、と少し楽しみにしていたのですが、逆に(作中では)評価されるばかりで首を傾げています。

それからすわさきさんは
>ジャンプから戦力外通告されて、漫画家・ガモウひろしは死に、新人原作者・大場つぐみとして生まれ変わった。
>同じように、川口たろうが死んでサイコーに生まれ変わった、とみなすことが出来ます。

とおっしゃっていますが、川口たろう→ガモウひろし、サイコー→(天才的な画力を持つ)小畑健を「手に入れた」大場つぐみ である気がします。
サイコーは今の大場&小畑ペアであり、同時に大場さんの理想像なのかなーと邪推してしまうくらいに、「作者」が前に出てきてますよね…。
個人的にはキャラ<作者の話はあまり好きではないのですが、半ノンフィクションみたいなこの作品ではこれもまた仕方ないのかもしれない…のか?

そして私も見吉好きです!見吉と新妻先生だけがこの漫画の中でキラキラしているように見えます。ほんっと、幸せになってもらいたいです。

Re: タイトルなし
すわ@管理人
こんにちは。コメントが面白くて、楽しく拝読しました。

見吉、いいですよね。
彼女は、シュージン(と言うか、原作者?)の理屈では「馬鹿」に属する、感性だけで動く人間ですが、逆に、一番常識的なことを喋る人でもある。

亜豆との恋愛問題限定ではありますが、作中で唯一、サイコーに本当の意味で意見することを赦されているキャラでもありますし。

サイコー&シュージンの主人公組がとにかく理屈っぽくて、膨れ上がった自意識の中で机上の理論をこねまわしている感がある中、彼女が出てくるとパアッと空気が明るくなって、膠着していた話が動いてくれるんで救われます。貴重なキャラですよ。

シュージンの見吉への好意の表し方が どうにも普通じゃないので、彼女は本当に幸せになれるんだろうか?と疑念を抱いてたんですが、今のところ、別居だけど籍は入れて幸せそうなんで、ホッとしています。
にしてもシュージン、結婚式は挙げないのでしょうか?

>川口たろう→ガモウひろし、サイコー→(天才的な画力を持つ)小畑健を「手に入れた」大場つぐみ である気がします。
>サイコーは今の大場&小畑ペアであり、同時に大場さんの理想像なのかなーと邪推してしまうくらいに、「作者」が前に出てきてますよね…。


おお、なるほどー!
そうかもしれないですね。

最近の連載回での川口たろうプッシュぶりが尋常でなくて、なんとももやもやする思いです。誰もが彼やその作品を褒め称える。

見吉の父は実は川口たろうの親友(と言うか、崇拝者?)だった!
新人アシスタントは、サイコーの叔父だからと川口たろうの漫画をわざわざ探して読んできて、面白かったと褒め称える。(何故か、サイコー自身の漫画の話題は一切口にしない)

…どうしてこの漫画世界は川口たろう中心に回っているのでしょう…。
作中キャラクターとしての川口たろうは結局、一本アニメ化しただけの一発屋で、「人気低迷で出版社に仕事を切られた後、持ちこみ作品を根を詰めて描き続けたために過労死した」人ですよね。なのにまるで、国民的人気漫画家みたいな扱いです。
川口たろうの漫画家としての経歴がガモウひろしそのままなので、まるで原作者の自画自賛のようにも見えて、いっそう渋い気分にさせられます…。

中学時代の川口たろうが、休日に学校に行くのはおかしいと、特別授業や早朝授業に絶対出なかった、でも模試ではいい成績だった、とかいう感じに見吉の父が語って、ニュアンス的に肯定的と言うか誇らしげでしたけど。
確か川口たろうは低ランク大学に進学して、しかしこのままでは好きな彼女に恥ずかしくないレベルの職に就けないと思って漫画家を目指し始めたと言うことでしたよね。
勉強しなかったからいい大学に行けなかったし、好きな彼女にすぐ告白することもできなかったんじゃないですか。

川口たろうと言う人物は、「日曜や早朝に学校へ行くのはおかしい」「男の自尊心の保てる高レベルの自分でなければ、好きな彼女にも告白すべきでない」みたいな、自分脳内で作り上げたルールで自分を縛っちゃう人みたいですよね。
で、半分はそれを「馬鹿なことだ」と言いつつ、もう半分…本心では凄く肯定している。「男のロマン」だと作中で言ってますよね。


それにしてもこの漫画、一体どういうところに進んで、どういう終わり方をするんでしょうか。
決まったゴールはなくて、人気低迷して編集部に終了を決められるまでライブ感覚で続けるのかなぁ…。その時のために亜豆との結婚という設定を用意してる?

興味深く読みました
みそしる
私もバクマンにもやっとしていた一人です。
とてもドラマチックで先が気になるマンガなのに、ときどき主人公達や女性キャラの言動で何とも言えない気持ちになってしまいます。こちらの文章のおかげで、モヤモヤしていた理由に納得がいって大変スッキリしました。


Re: 興味深く読みました
すわ@管理人
こんばんは。スッキリしていただけたとのことで、こちらも嬉しいです。

最近の展開は、
エイジと二人でサイコーたちを煽っていた服部氏が、いざサイコーが今の連載をやめたいと編集長に言ったら「まさか本当にやめると言い出すとは」とか言い出したのにポカーンとしました。なにそれ……(汗)。

『バクマン。』の展開でもう一つモヤッとするのって、ライバルが登場したかに見せかけて、常に展開が腰砕けになって、ライバルがなんとなく消えて(目立たなくなって)、なしくずしに次の展開に移ってしまう点ですね…。
読者の予想を外したいと思ってるのかなという気がするんですが、読者の予想はそうなってほしいという期待でもあるので、たまには王道に話を進めてくれたっていいのになあ、とか。

すっきりしました。
なるほど
女性です。バクマンを読んで、「少女漫画」や「頭の良い女の子像」に「ん?」と思い、読み直ししたのは当然のことだったんだと納得しました。
今どきの中学生が、こんな古くさい女性像を思い込んでるか?とも思いました。
ヒロインはいわゆるお嬢様ですが、よほど地頭が悪くない限り、現代では高等教育の環境を親が与えます。なので、嫌みのない勉強もできる可愛らしいお嬢さん、がリアルなんです。
メジャーな少年漫画誌で、こんな古くさい価値観を中学生に代弁させる手法で、読者に押し付けるのが本当に気持ち悪いと思いました。


Re: すっきりしました。
すわさき@管理人
『バクマン』も完結してかなり経ちますが、気になったのは、主人公がたまに彼女に電話すると、彼女は必ず、可愛らしい自室に一人でいることになってることでした。

人気声優として活躍してるはずなのに、仕事先で電話を取る場面が全くない。街で遊んでることもない。
誕生日も家族と祝っていて、ミヨシ以外の友達や仕事先の知人と親しくしている様子が描かれたことは一度もない。
不自然ですよね(^_^;)
主人公がたまに思い出して電話するとき以外 生きて生活していない お人形さんかっつーの。
と、当時思っていたなぁ。


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当時それなりに話題になりましたから、ご存知の方も多いでしょうが、
三年くらい前、『ドラえもん』のオリジナル最終回を描いた漫画同人誌に、小学館が販売停止・在庫処分を申し立てて、売上金をも還元賠償させたということがありました。

ドラえもん最終話同人誌問題(ウィキペディア)

現在、無許可の二次創作作品は世に溢れていて、一つの市場すら形作っています。
そんな中で、どうしてこの同人誌が問題になったのか。
理由は、以下の二つだと言われています。

・一万三千部を売り上げ、ファン活動の域を超えた数百万の利益を得ていた
・原作によく似せた仕上がりのうえ、web上であちこちに転載されて出典が曖昧になったこともあり、本物だと勘違いする読者が出た

これにより、小学館と藤子プロが、著作権利の深刻な侵害だと危機感を覚えたわけです。


この同人漫画を読みましたが、確かに素晴らしいものでした。
原作版風の絵柄の過去パートと、アニメ版風の絵柄の現在パート。
特に過去パートは、コマ割り(テンポや構図)すらも原作によく似せていて。
のび太が動かなくなったドラえもんに夜通し、しみじみと語りかけるシーンや、ドラえもんが起き上がるラストシーンは特に感動的で、じ~んと泣けてしまったくらいです。
これなら、小学館が脅威を感じるほど「本物そっくり」「本当に本物だと勘違いした」と話題になるのも無理がないと思います。

この件への各所の記事を見ても、「あまりに上手すぎたから、出る杭が打たれた」という論調のものすらあって、作品自体への評価は高い感じですね。


けれど、この作品にはもう一つ、道義的な問題点があるように思います。
この同人漫画の絵やコマ割りは、原作に似せた借り物。
そしてストーリーもまた、この漫画家さんの考えたものではない、借り物だったからです。

世間に広く流布している都市伝説の「ドラえもんの最終回」を漫画化した。
そういうことなんですけども、実を言えば、その「ドラえもんの最終回」は作者不明の都市伝説でも何でもなく、ある個人ファンサイトに掲載されていたファンノベル…同人二次創作小説だったのですね。
これは、大手ドラえもんファンサイトなどで解説されていたりしたので、調べると割と簡単に判ることでもあります。

つまり、同人漫画「ドラえもんの最終回」は、《『ドラえもん』の二次創作小説》を元に作られた三次創作。他人のふんどしを二重に締めたうえで作られた漫画だったのでした。
その漫画で大きな収益を得ていた。


ちなみに小説の作者さん(佐藤さんと仰るそうですが)の方は、個人サイトで無償公開していた小説を無断転載されチェーンメールで広められて、サイト上で停止を呼びかけても効果なく。
自分の作品が作者不詳ストーリーとして勝手に広められたわけですが、その一方で、知っている人たちには、勝手に偽物の最終回を広めた原作を汚したと叩かれて、小説を削除して謝罪文を掲載し、最後はとうとうサイト閉鎖されたのだそうです。
二次創作者として、恐ろしい話だと感じます。

ただ、話はここで終わらず、都市伝説として広まっていた《ドラえもん最終回》を知った映画特撮スタッフの山崎貴(後に『三丁目の夕日』監督)が感動し、それを基にオリジナルの脚本を書き上げ、更に、二次小説の作者を探し当てて許可を取り、藤子プロの許諾も得、偶然ながら小学館をスポンサーにして、自らが監督となって映画『ジュブナイル』として結実させた、という顛末があります。

映画 《ジュブナイル》 と 『ドラえもん』(ネオ・ユートピア)

二次小説の作者さんは、本来は二次創作なのだから原案者とされるのはおこがましいと、結局「Director's Thanks」の名目でクレジットされ。そしてこの映画のクレジットには「For Fujiko・F・Fujio」(藤子・F・不二雄先生に捧げる)とも書かれたそうです。
この顛末はちょっと羨ましい。

が、数年後に、今度は無許可で同人漫画化されて、それは小学館ともめてニュースにされたわけで…。
自作品が手を離れて一人歩きしているというのは、恐ろしいことだろうなと思います。

しかし、逆に言えば、それだけ人の心をとらえる魅力が、その二次創作にはあったということですね。凄いことです。


さて。
今更こんな話題をずらずら書いたのは、たまたま、この件に関する記事を読み返したのと同じ日に、原作そっくりの『ドラゴンボール』後日談漫画(勿論、二次創作)を読んだからです。

ドラゴンボールAF(toyblog)

これ、とっても面白いです。絵もコマ割りの感じも原作から違和感ないし。
それに、ブログで発表されてる割には、ごちゃごちゃしてなくて、ページ送りもしやすくて読みやすいです。
現時点で150P以上公開されていますが、一気に読んじゃいました。
『Vジャンプ』辺りで連載してても問題ない感じですよ。

ただ、WEBで無償公開されているのと同時に、同人誌として、決して安くない値段で販売もされている…。
ドラ最終回同人漫画が問題視されたのは

・販売して高い収益を得た
・原作そっくりの(本物と混同される恐れがある)ものをWEBで広く公開

という点があったから。
むむむ…。
売り上げがそんなに伸びてなければ問題ないのかな?

と言うか、どうも、これも三次創作らしいです。
アメリカで作られた『ドラゴンボール』続編ファンアート(嘘企画)を『ドラゴンボールAF』と称するらしく。(海外ファンは、これが日本で製作された正式な続編だと信じていたという説もありますが、どうなの?)新キャラや、パワーアップした旧キャラクターたちのイラストがWEBに出回っているようで。それに想を得て漫画化したもの……らしいです。ちゃんとした説明がブログに見当たらないので判りません。


ちょっと検索してみると、『ドラゴンボール』の同人続編漫画って色々出てきますね。悟空が凶暴化して敵になってるやつとかあって驚きました。

【2010/01/22 20:54】 | すわさき・その他
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米光さんのブログにて、
池袋コミュニティカレッジ講座「『1Q84』をめぐる読書の冒険」の告知がされている。
その記事中に、
『「そうだ、村上さんに聞いてみよう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける282の大疑問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?』(朝日新聞社)
という本から、“僕が考える「これは読まなくていい」という類の解説・評論”九箇条が引用されていた。村上春樹が自サイトで読者からの質問コメントに返答したログをまとめたものだそうだけど、《重箱の隅つつき》《引用が多い》など、自分自身の書く感想に当てはまる部分が多くて軽く鬱々となった……。

なんてことは置いておいて。
不思議に思ったのは、《難解な専門用語を多用したもの》と並べて《全てを単純明快に説明しているもの》までもが、読む価値のない解説・評論として挙げられている点だった。

なんでだろう? 単純明快に説明できるのはいいことじゃないんだろうか。
そうした文章には不足や不備があるに違いないってことなのか。それとも、読んで面白くないってことだろうか?
元の本には理由が書いてあるのかもしれないけど。



評論家が自論を自身の尺度で展開することを否定気味なこの九箇条を見るうち、クリエイター(批評される側)の人が理想とする評論と、受け手側が望むそれは、必ずしも一致しないんじゃないかな、などと考えた。

【2009/09/14 20:11】 | すわさき・その他
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