「はてなどう」「ナラカ」「円環伝承」共用。書き手は ちゃすかとすわさきの二人。
yom yom (ヨムヨム) 2009年 10月号 [雑誌]yom yom (ヨムヨム) 2009年 10月号 [雑誌]
(2009/09/26)
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新潮社の雑誌『yom yom』に掲載された、前作から一年半強ぶりの十二国記シリーズ新作。

一読して受けた印象は、同シリーズ内の『華胥(かしょ)』(単行本『華胥の幽夢(ゆめ)』収録)と同系統だな、というもの。
真面目に真面目に、法制度や国政について、キャラクターの口を借りて作者が論述している。
今回のテーマは「死刑制度の是非」だった。


舞台は柳国。時間軸は、陽子たちの活躍する《現代》(の、数年ほど前?)であるようだ。

柳国は当代の劉王のもと、優れた法治国家として百二十年栄えてきた。しかし近年、凶悪な犯罪が続き、人々の間には不安が広がりつつある。劉王は賢君であったが、最近は言動がおかしく、国政に無関心になっているように思われる…。この世界では、王が道を失えば国が荒れるのである。

司法府(最高裁判所のようなもの)に務める司刑(裁判長)・瑛庚(えいこう)は悩んでいた。
前科を三件も犯しながら反省することがなく、幼い子供から老人まで二十三人もを殺した連続殺人犯、狩獺(しゅだつ)の処遇についてである。

この国では、現王の指示によって久しく死刑を停止している。代わりに、十年ほどで消える特殊なインクによる頭部への刺青を行い、再犯率を下げる効果を得てきた。
が、狩獺に関しては極刑を処すか否か、審判が求められていた。既に地方の司法、その上位の行政府で裁判が行われており、どちらでも死刑判決が出ていたが、審理は紛糾し、国に最終審判を任せようと国府司法に回ってきたのだ。
国中がこの裁判に注目し、国民の殆どは死刑を求めていた。瑛庚の妻までもが、どうして死刑にしないのかと、まるで人非人扱いして、日々責め立ててくるのである。

審理は、司刑、典刑、司刺の三人で行われる。
弁護人的な立ち位置の司刺は、死刑ではなく終身刑にすべきだと主張する。
しかし調査官として被害者に同情的な典刑が尋ねる。では国民の税金で凶悪犯を一生養うのかと。
いや、殺してしまえば、万が一冤罪だった時に取り返しがつかない。
いつ冤罪だと判るのか。誤断の可能性に備えるのではなく、誤断しないように心掛けるべきだ。そもそも、狩獺は罪を認めており、決して冤罪ではない。


実際、狩獺は情状の余地のない男であった。見た感じはごく普通で、良さそうでも悪そうでもなく、異常者には見えない。
しかし大した動機も無く、せいぜい目先の金が欲しかった程度のことで、しかも残忍に殺したのだ。人間ではない。考えられない。理解の範疇を超えていた。まさに豺狼(けだもの)だ。

なのに、裁判官たちは死刑を決めかねる。どうしてか、躊躇させるものがあるのだ。

最初は、死刑を許せば事実上 死刑制度復活になり、制度が暴走して、国の都合で簡単に処刑が行われるようになるのが怖い、と考えていたのだが、審理を続けるうちに違うと気付く。自分たちが法を司るのだから、そうならないように自分たちで管理すればいいだけのこと。恐れるにはあたわない。

では、何故か。
瑛庚は思考を探り続ける。

死刑とはいえ、殺人であることに変わりはない。
直接手を下すのではないにしろ、国政に携わる自分たちは国の一部なのだから、国が死刑を行うということは、自分が人を殺すということだ。
人殺しへの忌避感がある。それは確かだ。
被害者遺族に任せれば、喜んで処刑を行うだろうが、それはただの復讐である。法治国家で行うことではない。

そもそも、どうして民衆はこれほどに死刑を求めるのだろうか。
被害者遺族なら無理もない。だが、無関係の人々までもがこれほど強く望むのは何故なのか。

不安だからです、と、瑛庚の孫で国官を務める蒲月は言った。
国が傾きつつあるように感じられる今、理解も共感もできない凶悪犯の存在は不安をますます煽り立てる。だから、取り除きたいのだと。理解できない存在を切り離し、消し去ることで、世界を安堵できるものに整えたいのだと。
この言葉は、瑛庚の胸をえぐった。自分自身にも覚えがある、共感できる答えだったからだ。


死刑を行わない理由は、どこにもなかった。
しかし裁判官たちは、一縷の望みをかけて狩獺に面会に行く。
死刑反対派の上司が言った、「豺狼という言葉は、理解しがたい罪人を人以外のものに貶める言葉だ。人以下だと切り捨ててしまえば、罪人を教化することは叶わない」という言葉も胸に刺さっていた。
彼が心に抱えたものを知り、犯罪に至った理由を理解できたなら、更生させることもできるのかもしれない…。

が、狩獺は調書の通り、救いようがなく理解できない豺狼(けだもの)でしかなかった。
無関心で横柄な態度。一切悔いる様子はなく、むしろ顔に施された刺青のせいで更生できなかったなどと被害者ぶってさえみせる。終身刑など御免だから死刑にしろと言い放ち、まるで恐れる様子もない。

いくら情をかけようと、悔い改めることのない者はいるのだ、と瑛庚は思い知る。
そして感じた。《正しさ》に逆らうことこそが、彼らにとって、何かへの復讐なのだと。

瑛庚が司刑として、最終判決を下す時が来た――。




民衆が、自分に直接かかわらない犯罪者の死刑を強く望むのは何故なのか。
それは不安だからだ。理解できないものを排除して安心したいからだ……。

この結論が印象的だった。
何故なら、少し前に紹介した漫画『裁判員の女神』でも、全く同じことを言っていたからである。

裁判員制度を描くその漫画では、裁判員たちが更生の様子の見られない強姦殺人犯を死刑にするか否かもめる。
殆どの裁判員、そして被害者遺族は強力に死刑を推していた。
しかし自らも被害者遺族である裁判官・勇樹美知子は、ジャーナリストである裁判員の一人に、せめて犯人が死刑になっていればあなたも救われたでしょうと言われて、こう返すのだ。

「それは」「「死刑になればすべて解決する」」「あなたがそう考えたいだけではありませんか?」
「不幸を背負い込んだ被害者遺族を見続けることがつらい
だから死刑という判決で納得して事件を忘れたいんです」



美知子は、犯人を死刑にして事件を忘れるのではなく、苦しんでいる遺族に手を差し伸べてほしいと訴える。また、被害者遺族には、復讐するよりも、亡くなった人に喜んでもらえるように《生きる》、苦しくともそれしかないのだ、と言った。

美知子の理屈は理性的・理想的すぎるきらいがあるが、最終的にはそこに辿り着くのかもしれない。

言われてみれば確かにそうで、凶悪犯罪者を死刑にしたいのは、罰を与えるというより、怖いからなのだった。
存在してほしくない、消えてほしい。


『裁判員の女神』では、犯人は死刑を免れ、懲役二十年になった。
しかし『落照の獄』では、瑛庚はついに、死刑の判決を下す。

が、勝ち誇ったように笑い声をあげたのは狩獺の方である。彼は更生を拒み司法に否定されることで、何かへの――《正しい世界》への復讐を遂げたのだ。
対して、瑛庚は敗北感を感じる。
傾きかけた、先行きの不安なこの国が、何故か、この時、落日へ向かい始めたように感じたというのである。

救いようのない、理解できない者を、死刑によって切り捨てたとき。
国は、何を失うというのだろうか?


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【2009/10/01 23:07】 | すわさき・感想
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(2008/02/27)
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※この感想は、2008/03/16の別館日記からの再掲です。


新潮社の文芸雑誌「yom yom」に掲載された読み切り短編で、十二国記シリーズの六年ぶりの新作。

十二国記の一作目は新潮社から出たが、ヒットしたのは講談社で出した二作目以降のシリーズから。そしてアニメ化、一般文庫化。……六年の沈黙。
沈黙を破っての新作発表は新潮社で。水面下でどんな動きがあったのだろうかと思わせられる。

読む前に、この話は作者自身の創作への想いを語ったものではないか、という感想をwebで見ていたのだが、読んでみてなるほどなぁと思った。確かにそう受け取れる。


陽子が即位する前後の慶国の話。

主人公は丕緒(ひしょ)という官人の男性。王に仕える職人だ。何人もの王に仕えたので、長い時間を生きている。

大射という、王を祝福するための儀式がある。作り物のカササギを放ち、それを矢で射て砕くというものだ。丕緒たち羅氏は、その作り物のカササギ…陶鵲(とうしゃく)を作る専門の職人である。
かつての丕緒は、師と共に理想の陶鵲を作ることに腐心していたものだった。割れると美しい音が鳴る、素晴らしい香りが香る。

けれど王が歪み、斃(たお)れた。それから何代も王が代わったが、みな玉座を温めることなく失道して、国はどんどんと荒んでいった。そんな中、敬愛する師は無実の罪で処刑されてしまう。

これらの状態を憂えた丕緒は、作りものとは言え吉兆のシンボルであるカササギを射落とす儀式に疑問を感じるようになり、作りだす陶鵲に「悲しみ、無惨さ」を込めようと考える。華麗な儀式にうつつを抜かすのではなく、苦しみ荒んでいる国の様子にこそ気付いてほしいと思ったからだ。

しかしどんなにそれを込めて作っても、なかなか意図が伝わらない。特に、身分の高い、社会的立場を持った人間ほど無理解である。これまでの名声にばかり着目して、何を作っても「流石ですな、素晴らしかった」と笑うだけ。名もない一兵卒の中には酌み取ってくれる者もいて、「悲しくて胸打たれました」とそっと伝えてくれることもあったのだが…。

そして。これならどうだと、自らの主張を込めに込めた会心の作品は。
射抜かれた陶鵲は、悲痛な悲鳴をあげて落下。地で砕け、赤いガラスの欠片になって散った。
それを見た予王(陽子の先代の王)は「恐ろしい。こんな惨いものは見たくなかった」と嫌悪をあらわにし、宰輔からも「主上は傷ついておられる」と言われ。予王は、それから二度と大射の儀を行わなかったのである。

丕緒は愕然とする。恐ろしくて当たり前だ。惨さを見て傷ついてほしい、まさにそれを目的にして作ったのだ。なのに見たくないというのか。自分が作品に込めたテーマを受け取ってもらえない。何故なんだ。

苛立ちと虚しさに囚われるばかりの丕緒。
その一方で、同輩の羅氏である女性、蕭蘭(しょうらん)は、まるで呑気なように見えていた。荒んだ下界の様子を見たくないからと、下界が見える場所に梨の木を植える。ただ黙々と作品を作り続けて、お前は世間の様子が気にならないのかと問えば「気にしても仕方ない、ただ毎日仕事をするだけ。いやなことは見たくないから見ない」と平気で言い放つ。

そんな彼女も、予王が、国から全ての女性を追放するという命を下した際、どこかに連れ去られて。予王が斃れても、そのまま二度と戻ってくることはなかった。
丕緒は「逃げろ」と警告していたのに、蕭蘭は「本当にひどいことをされるはずがない」とたかをくくっていた。挙句、こんな結果になったのである。

彼女が消えて以来、丕緒はいよいよ虚無感に囚われる。新王・陽子が即位すると聞いても、また女王か、どうせ長持ちせずに国を荒らすだけだとしか思えない。

それでも、かつての名声を持つ彼に、上官は陶鵲を作れと命じてくる。仕方なく作業に取り掛かって……丕緒は愕然とした。頭の中に何も浮かばない。作品を「作らない」のではない。自分はもう作品を「作れない」のだ。職人として終わってしまっていたのだ、と煩悶する…。

しかし蕭蘭の弟子の青江と語り合ううち、丕緒はふと気づいた。
自分の世界にこもり、黙々と作品を作り続けていた蕭蘭。彼女の姿勢を間違っていると思っていたけれど。作品を作り続けることこそが、彼女にとって社会と対峙するということだったのではないか。
荒んだ下界の様子など見たくないと言って木を植えた蕭蘭。しかし彼女は、いつも木の方を見ていた……。


以降は、蕭蘭の語っていたアイディアを元に新しい陶鵲を製作し、新王陽子に披露する……という風に物語は続いていく。


黙々と作品を作り続ける自分自身に対する後ろめたさ。一度社会的評価を得てしまうと、逆に権威者には理解してもらえなくなること。自分が込めた思いが相手に伝わっても、受け入れてもらえないことがあること。

確かに、そういう作者自身の思いが、赤裸々に書き表されているようにも思えた。
十二国記シリーズが売れたために、かえって苦しかったんだろうか。

殆ど誰も作品の意図を理解してくれない。たまに理解してくれる人は力弱く声が小さい。
長い間休筆して、いざ書こうとしたら書けなくなっている。
それは、作者自身の声なのだろうか? そういえば、悪霊シリーズ(ホワイトハートの方)が停止したのは、ひどい感想を送ってきた読者がいたからだったろうか。

それでも。この小説は語る。
たった一人。こちらの意図を正確に理解したわけでもないだろう、それでも純粋な言葉をかけてくれた。「あなたの作品に感動しました。あなたの作品について語り合いたい」そんな拙(つたな)い、たった一つの言葉が、全ての懊悩(おうのう)を吹き飛ばしてしまうという結論。

ああ、そうか……。
と納得しつつ。少し後ろめたくもなった。
私は「理解しない沢山の読者」の方に入るんだろうなぁと(笑)。


ところで、「yom yom」という雑誌、今まで存在すら知らなかった。
けれど今回は、地元の本屋が二冊だけ入荷しててくれたので危うくゲット。
畠中恵の「しゃばけ」の新作も載っていたのは嬉しい不意打ちだった。若旦那は相変わらず可愛いねぇ。


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【2009/10/01 20:38】 | すわさき・感想
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